なぜ彼女は惚れた男の男性器を切断し、殺害したのか…。今も語り継がれる「阿部定事件」(1936年)。事件当時の世間の反応や、犯人である阿部定さんが事件を起こすまでの人生を、ノンフィクション作家の八木澤高明氏の新刊『殺め家』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

阿部定が働いていた丹波篠山遊廓。その跡には今も当時の建物が残る ©八木澤高明

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「ウチのオヤジと乳飲み兄弟って聞いてますよ。ウチの婆さんってのが、9人も子供を生んでいるから、おっぱいの出が良くてね。阿部定のお母さんってのが、あまり子育てができない人だったようだから、余ってるからウチのおっぱいあげるよってね」

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 東京神田町、2007年冬を歩いた。今ではオフィスビルが建ち並ぶ一角に男性器を切断し殺害した阿部定が生まれ育った家があった。今では生家の痕跡はなく、ビルになってしまっているが、生家跡から程近い場所に暮らす男性が、彼の祖母と阿部定の浅からぬ因縁を話してくれた。乳飲み兄弟とは、今ではほとんど死語になってしまっている言葉であるが、人情味豊かな下町ならではの人と人との繋がりが、この町にはあった。神田が大きく変わっていったのは、1960年代だという。それまでは、月に3日縁日があり、人通りが絶えず賑やかだった。今では、通りを行くのは車ばかりで、人通りはほとんどない。

 阿部定は1905(明治38)年5月28日に生を受けた。当時の神田周辺は、職人とその家族が住む長屋が建ち並んでいた。阿部定の父親の稼業は畳職人。腕の良い職人で、常時5、6人の職人を雇い、商売は繁盛していたという。

 上げ膳下げ膳で女中に食事を運ばせ、小遣いも不自由なくもらい、物心着く頃には、近所の不良たちを集めて浅草に繰り出したという。そうした阿部定の男関係にだらしない生活態度を見かねた父親によって、「そんなに男が好きなら芸妓にでもなれ」と芸者として横浜に売られてしまう。