兄弟は会社を退職、結婚間近の姉は破談しただけじゃなく…。1988~1989年にかけて、4人の幼女を殺害した宮崎勤(享年45)。彼の凶行は被害者家族だけでなく、自身の家族にまで影響が及ぶ。事件後の宮崎家に起きた「最大の悲劇」とは…? 重版もしたノンフィクション作家の八木澤高明氏の新刊『殺め家』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)

1989年、宮崎勤容疑者の自宅前の畑の捜索を開始した埼玉県警の捜査員 ©時事通信社

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女癖の悪さで有名だった祖父

 事件を起こす前の宮崎の様子についても聞いてみた。

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「あんなことをしでかすとは思わなかったけど、ちょっと変わった子どもだったな。姉と妹はちゃんと道で会えば挨拶をするような子だったけど、勤は挨拶したことなんてなかったな。いつもそっぽ向いてたよ。家の中では爺さんにはえらい懐いていたようだな」(宮崎勤の実家の前で出会った男性)

 事件を起こす3ヶ月前に亡くなった祖父は、宮崎にとって精神的な支柱でもあった。祖父が亡くなったあと、形見分けに集まった親族を追っ払ったり、祖父の遺骨を食べるなど、異常とも言える愛情を祖父には抱いていた。祖父の死が事件の引き金のひとつになったことは想像に難しくない。織物工場を経営し、町会議員を務めるなど、地元の名士でもあった祖父だが、女癖の悪さは地元でも知られていた。

「お父さんが新聞を出す前は、織物の工場だったんだ。ここに移って来る前は、山の上のお寺の前に住んでいたんだけど、何か金が入ってきたんだろうな。爺さんはここに来て工場を建てたんだよ。女工さんを何人も置いてね。お爺さんは手が早いから、女工さんに手を出して、子どもを生ませちゃったり、方々に女をつくっては、お婆さんとよく揉めてたよ。お婆さんも勝ち気な人だから、黙ってりゃいいものを、近所にうちの爺さんは、また女をつくったなんて吹いて歩くもんだから、有名な話だったんだよ」