「家じゃ新聞社からの電話が鳴りっぱなし。あの頃、人殺しなんて無かったから、大変だったんだよ」

 1936年、世間を騒がした「阿部定事件」。女性が不倫相手を殺害しただけでなく、男性器を切断、さらに逃亡したというセンセーショナル事件はなぜ今も私たちの気持ちを捉えて離さないのだろうか。当時の反応や、事件後の阿部定さんの人生を、ノンフィクション作家の八木澤高明氏の新刊『殺め家』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)

今も色街として賑わう飛田。この街でも阿部定は体を売っていた ©八木澤高明

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「普通のお婆さんだったよ」

 三河家店主の和夫さんは、東京で修行をしている時代、晩年に阿部定が経営していたバーに顔を出したことがあった。東京オリンピック前のことだったという。

「三河家の倅ですなんて言わなかったですよ。ほんの小一時間、店に行っただけですよ。小さな店だったね。うちの母親は嫁には阿部定さんのことを話してくれたみたいだけど、さすがに息子の自分には何にも話してくれなかった。事件が事件だけに当たり前だよね。どんな人だか見たかったんですよ。普通のお婆さんだったよ」

阿部定さん ©文藝春秋

 丹波の黒豆と猪鍋が有名で、素朴な田園風景が似合う丹波篠山、この土地と阿部定、両者の間の結びつきを想像することは難しいが、ここ丹波篠山の町の一角にかつて遊廓街が存在した。その名残は田んぼが広がる農村風景の中に今も残っていた。遊廓はこの地に駐屯していた陸軍歩兵第七〇連隊の兵士のために造られたものだった。この遊廓に阿部定も身を寄せ、彼女が働いていた大正楼という遊廓は今では壊されてしまったが、私が取材した当時は現存していた。

 大正楼だけでなく、他にも遊廓や建築物が残り、昨今の風俗街の建物からはほとんど感じることのない文化の香りが農村地帯に漂っているのだった。ここで働いていた阿部定にしてみれば、冬の寒さも厳しく、付近は田んぼばかりのこの土地は良い働き場所ではなかったらしく、遊廓から逃げ出している。

 飯田、丹波篠山と現在からは想像もできない場所にある派手な色街、阿部定が逃げ出したことからも、娼婦たちの置かれている状況は厳しいことがわかるが、その一方で戦争へと進んでいく暗い世相の中には、今より華やかな庶民文化が各地に花開いていた。そうした土地を阿部定はわたり歩いていたのだった。

 東京都荒川区尾久、かつて尾久三業地と呼ばれた歓楽街、阿部定が事件を起こした土地である。2年前にここを訪ねた時には、古い旅館が残っていたのだが、今では駐車場となっていた。当時の雰囲気を残しているのは、密集した住宅街と細い路地ぐらいだ。

 かろうじて、事件当時のことを記憶していた老女に出会った。老女は当時芸者の見習いをしていた。