藤倉の『マイク交遊録 ぶっつけ本番のアナ人生敢闘記』(1963年)によれば、翌日、花束を持って再びガード下にお時を訪ね、身元を明かして「ぜひ放送させてほしい」と懇願。お時は「お役に立つなら」と承諾したという。
実際に放送されると、「一部の批評家からは『猟奇好みの放送』だとか『カストリ趣味』とか『アナウンサーの堕落』だとかたたかれた」と藤倉は同書に書いているが、反響は大きかった。「彼女は、その晩からヤクザの足を洗い、『らく町』から姿を消した」(同書)。
のちに彼女は「仲間内のことを外に話した」として「姉さん」の夜嵐あけみらからリンチを受けて追い出されたと語っている。
「西田時子」から藤倉アナウンサーに届いた手紙
この1947年、A級戦犯を裁く東京裁判では、国民が知らなかった歴史的事実が次々明らかにされ、5月には象徴天皇を定めた日本国憲法が施行された。一方、官公庁の労働組合が計画したゼネラルストライキはGHQに禁止され、占領の性格があらわになり始めた。そして、飢餓とインフレは依然として国民を苦しめていた。
その後のお時の消息について確実なのは、連絡がつながっていた藤倉アナの報告だ。『マイク交遊録』には要旨、次のように書いている。
〈それから9カ月。仕事に追われ、その年も暮れようとするころ、「西田時子」という見知らぬ女性から達筆の手紙をもらった。それは思いがけない「お時さん」からの便りだった。
「女だてらに思い上がって、闇の女たちに姉さんと呼ばせ、親分と慕われて、いい気になっていた私はなんというばかな女でしたでしょう。あの晩、藤倉さんに威張ったように『らく町』の女を1人でも多く更生させるためには、私自身がまず、ヤクザ生活から足を洗い、現実の社会に飛び込み、その苦しみを味わわなければと東京を去り、(千葉県)市川市のある会社に勤めました。ずいぶん固い決心でカタギの生活に入りはしましたが、浮世の風は冷たく、決心も時には崩れそうになります。そんな時ふいっと思い出すのは、あの晩の藤倉さんの言葉です。『あなたの力で一人でも多く、ここの娘たちを更生させてください……』。これを思い出して、私はまた心を決め、強くなろうとしております」。
ボクはジーンとなってしまった。〉
〈ボクは市川市のある小さな会社に「らく町のお時」改め、女事務員の西田時子さんを訪ね、今度は真正面からマイクを差し出して、「あれから」の彼女の更生談を聞いた。彼女は地味なカーキ色の上っ張りに鉄火の情熱を秘め、今のところ、化粧代にも困るカタギの生活を歯を食いしばって続けているのだと、あからさまに話した。〉
この「ガード下の娘後日談」は翌1948年1月14日に放送された。
