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「ボーイング社の修理はきちんとなされたのだろうか」

 翌14日には運輸省航空事故調査委員会(事故調)のメンバーが墜落現場で、事故原因と注目されていた右側最後部のR5ドアを発見する。機体に付いたままのほぼ正常な形で、吹き飛んで垂直尾翼に当たって垂直尾翼を壊した可能性は消えた。

 墜落直前の飛行写真については、運輸省航空局の幹部が「明らかに垂直尾翼がほとんどなくなっている」との見解を14日に示し、事故調もその後の調査の過程で、写真を東海大学技術センターが開発した画像解析技術(汎用画像処理システムTIAS2000)によって分析して垂直尾翼面積の少なくとも55%以上を失った状態で飛行していたことを突き止め、事故報告書に掲載する。

 ボーイング社を全面的に信頼し、修理を依頼することを主張したのは松尾芳郎だった。その松尾が「それにしてもなぜ後部圧力隔壁が破断したのか。たとえば隔壁の修理が杜撰だと、そこから金属疲労を起こして短時間で隔壁に亀裂が入って与圧空気によって破断する。ボーイング社の修理はきちんとなされたのだろうか」と考えた。

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墜落した日航123便のジャンボ機の後部。 7年前、大阪国際空港でしりもち事故を起こしていた=1978年6月2日(写真提供・産経新聞)

松尾と同じような推測の声は聞こえてこなかった

 この時点(墜落事故翌日の13日)で、隔壁破断から垂直尾翼の吹き飛ばし、油圧配管のハイドロ・システムの破壊、操縦不能という最悪のシナリオに気付いたのは、松尾のほかにはいなかっただろう。松尾は当時を振り返って「私でなくとも整備部門の担当者なら気付くはず」と謙遜するが、あのころの日本航空で松尾の右に出る航空エンジニア(技術者)は皆無だったと言っても過言ではない。

 事実、墜落事故の直後、日航社内から松尾と同じような推測の声は聞こえてこなかったし、墜落直前の写真とともに8月13日付の夕刊には事故の原因を探る航空専門家の推測や解説が掲載されていたが、どれも松尾の域には達していなかった。

 たとえば、その推測や解説はこんな具合だった。

〈状況からパイロットの操縦ミスはない。事故機は墜落の直前に『右最後部のドア(R5)が壊れた。機内の気圧が下がっている。急下降する』『操縦不能だ』と管制に伝えている。R5ドアに何らかの異常が発生してこのドアを破壊するとともに垂直尾翼や水平尾翼も壊し、操縦ができなくなったのではないか。尾翼に定期検査でも発見できない微細なクラック(亀裂)が生じていた可能性がある。それとも尾翼付近で爆発が起きたのだろうか〉

 前述したように14日には事故現場から機体にきちんと取り付けられたR5ドアが見つかり、この解説は意味がなくなる。

 次のような解説や指摘もあった。

〈ジャンボ機は20万時間の飛行テストに耐えている。事故機は2万時間しか飛んでいないから機体の金属疲労が原因だとは思えない〉

〈就航15年間、ジャンボ機は設計上の基本的ミスによる大事故を起こしていない。安全な旅客機だ。だが、事故は考えもつかないことから起きることの方が大きい〉