山口百恵の育ての親として知られ、昭和を代表する音楽プロデューサーとして活躍した酒井政利さんが今年7月16日、心不全のため死去した。85歳だった。
酒井さんは和歌山県出身。箕島高校、立教大学を経て松竹に入社し、その後日本コロムビアを経てCBS・ソニーに入社。同社のヒットメーカーとして300組以上のアーティストを世に送り出した。
2018年、酒井さんの半生とその仕事を1冊の文庫本にまとめるため、延べ20時間に及ぶ取材を行なったことがある。もの静かでソフトな語り口の酒井さんだが、若い時分には「紅白歌合戦」への出場を渋った当時17歳の南沙織に、思わず平手打ちを繰り出してしまったこともある熱血漢だったという。(全3回の2回目/#1、#3を読む)
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事実無根の報道で追い詰められた天地真理
酒井さんが「天才プロデューサー」として名を馳せ、もっとも精力的に活動したのは1960年代から70年代にかけてのことである。
1971年にデビューした天地真理は、南沙織、小柳ルミ子とともに「三人娘」と呼ばれたが、「ソニーの白雪姫」と呼ばれた可憐な天地の大衆人気は、他の2人を凌駕する勢いがあった。
だが、その後年齢を2歳「サバ読み」していたことが報じられると、その空白の2年間に「トルコ風呂で働いていた」「整形していた」などといった事実無根の報道がなされ、天真爛漫な天地真理は追い詰められ、心身に不調をきたすようになる。
1975年12月下旬、酒井さんのもとに1本の電話が入った。天地からだった。
「酒井さん、私は今年、大晦日のスケジュールがあいているんです。孤児院のような施設に慰問に行きたいんです。何とか一緒に行っていただけませんか」
この年、天地は前年まで3年連続で選出されていた紅白歌合戦への出場を逃していた。一方「三人娘」の南沙織、小柳ルミ子はそれぞれ『人恋しくて』『花車』で出場を果たしている。芸能界の残酷なコントラストが、天地の繊細な心を侵襲していたことは間違いなかった。
「頭を抱えましたよ」
酒井さんが当時を振り返る。
「私はそのとき、大晦日のレコ大(2006年より12月30日に変更)、そして紅白を控えていましたからスタジオに缶詰になっていました。私だけでなく、大晦日というのはレコード会社のプロデューサーにとって1年で最も忙しく、重要な日ですね。分刻みのスケジュールで動き回らないといけないことは、彼女も十分、分かっているはずなんですけど、私を1人にしないでくださいというわけですね」