山口百恵、アイドルからアーティストへの転身
山口百恵は際どい歌詞の「性典路線」で人気に火が付き、次第にアーティスト志向を強めていくことになる。だが、所属事務所のホリプロと百恵本人との間で方向性についての軋轢が生じるようになり、これが山口百恵に引退を決意させる遠因になった。ぞのあたりの経緯については、山口百恵自身が自叙伝『蒼い時』(集英社)のなかで明らかにしている。
1978年11月、山口百恵はシングル『いい日旅立ち』(作詞・作曲は谷村新司)をリリースした。この曲は、いまも東海道新幹線の車内放送の前に流れるスタンダードナンバーとして若い世代にも定着している。
酒井さんは同年、20歳を目前にした山口百恵の記念のアルバム制作に取りかかる。そのなかには大ヒットした『いい日旅立ち』も収録される予定になっていた。
いつもは控えめで、あまり自分の意見を言わなかった山口百恵が、このときは珍しく酒井さんにこう提案したという。
「酒井さん、アルバムのタイトルは『スーパースター』でどうですか?」
酒井さんはこのとき、山口百恵がアイドルからアーティストに変わりつつあることをはっきりと感じ取ったという。
「百恵さんのことを“スーパースターである”と表現していたのは谷村新司さんでした。谷村さんに認められた彼女は自信を持ち、1億人の恋人となるよりも、自己表現を打ち出そうとしていたように思います。ただ、私はそのとき一瞬、彼女の提案に躊躇したんですよ。アイドルを卒業するのか、しないのか。そこは重要な分かれ道になると思いましたからね」
見る者はおのずから悪業を離れる、天界に咲く白い花
だが、酒井さんの一瞬戸惑った表情を山口百恵は見逃さなかった。彼女は間をおかず、こう告げたという。
「……でもまあ、酒井さんのほうでいろいろ考えてみてください」
酒井さんが振り返る。
「これが彼女の鋭さなんです。スターが“白”と言えば、黒いものも白くなる。それが芸能界です。しかし、彼女は決して周囲を振り回すことはしないのです」
酒井さんは、山口百恵に「阿修羅像」のイメージを感じ取っていたという。書店に飛び込み、仏教事典を長時間にわたって立ち読みし続けた結果、「曼珠沙華」(マンジューシャカ)という言葉を探し当て、アルバムのタイトルにした。
「これを見る者は、おのずから悪業を離れるという天界に咲く白い花――それは、私の百恵さんに対するイメージそのものでした」