山口百恵の育ての親として知られ、昭和を代表する音楽プロデューサーとして活躍した酒井政利さんが今年7月16日、心不全のため死去した。85歳だった。

 酒井さんは和歌山県出身。箕島高校、立教大学を経て松竹に入社し、その後日本コロムビアを経てCBS・ソニーに入社。同社のヒットメーカーとして300組以上のアーティストを世に送り出した。

 2018年、酒井さんの半生とその仕事を1冊の文庫本にまとめるため、延べ20時間に及ぶ取材を行なったことがある。もの静かでソフトな語り口の酒井さんが語ったエピソードの中には、昭和を代表する男性アイドルの話もあった。(全3回の3回目/#1#2を読む)

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郷ひろみ…中性的な魅力を持った天性のスター

 1970年代から80年代にかけ、トップアイドルとして伝説的な人気を誇った郷ひろみ。彼もまた「酒井プロデュース」の代表歌手である。

郷のストイックな姿勢はいまも変わらない

「フォーリーブスのバックダンサーをしていた彼の歌を、私が最初に聴いたのは1972年のことでした」

 野口五郎の『青いリンゴ』を軽快に歌ってみせた郷ひろみの甲高い声に、酒井さんは天性のスター性を感じ取った。

「トッポ・ジージョ(当時人気だったイタリア人形劇のキャラクター)に似た声で、アンバランスな中性的な魅力がありました。私は作詞を大御所の岩谷時子さん、作曲をこれまた第一人者の筒美京平さんにお願いして、大々的に売り出すことに決めたんです。デビュー曲のタイトルは『男の子女の子』にしたと岩谷さんに伝えたら『気が狂ったの?』と言われましたよ」

 だが、そんな心配をよそに郷ひろみはデビュー直後から大ブレーク。西城秀樹、野口五郎とともに「新・御三家」と並び称される存在になる。

1972年のデビュー曲(『男の子女の子』)から郷ひろみを担当した酒井さん

 ところが、大スターへの階段を駆け上がりつつあった1975年、郷ひろみは突然ジャニーズ事務所を離脱し、バーニングプロダクションへ移籍した。

 ジャニー喜多川氏の秘蔵っ子と目されていた郷ひろみの異例の移籍は、さまざまな憶測を呼んだ。

「ひとことで言えば、ジャニーさんの愛情過多ですね」

 酒井さんはそう振り返る。