「芸能人の第2の人生を切り拓くための事業をしたいと思ったんです」と語るのは、1989~2021年まで俳優として活躍していた写真の松永博史さん(56歳)。全盛期は「マダムキラー」と呼ばれ、事務所のなかでファンから最もプレゼントを貰っていた彼だが、なぜ突如、引退を決意したのか? 彼の俳優人生、そして現在の「元芸能人のセカンドキャリア」を支援する活動について伺った。(全2回の1回目/後編を読む)
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俳優デビューのきっかけ
――松永さんが俳優を志したきっかけは何だったのでしょうか。
松永博史(以下、松永) 19歳の時に偶然、表参道でドラマ撮影をやっているのを見て、その華やかさに惹かれたんです。
父が故・中山史郎監督(『池中玄太80キロ』などを演出)と同級生だったので、「俳優になりたい」と相談に行きました。「最近の俳優は作品がどうやって作られているか分かってない、まずは現場で勉強しなさい」とアドバイスをいただき、ホリプロで撮影助手として働かせてもらうことになりました。1年ほど下働きをしているうちにマネージャーから声をかけていただき、1989年に正式所属になりました。片平なぎささんや船越英一郎さんといった先輩方が師匠的な存在として指導してくださり、現場に出ながら演技を学びました。
――俳優としてブレイクしたのはいつだったのですか?
松永 ちょうど結婚した1997年に、昼ドラ『その時がきた』(フジテレビ系)に出演し、一途なホストの役柄で奥様達に大人気になりました。「マダムキラー」と呼ばれ、その年のバレンタインやクリスマスで、ホリプロで1番沢山プレゼントをもらったのが自慢です(笑)。
そこから10年くらいは、2時間ドラマや連続ドラマ、Vシネマなど、順調に出演させてもらいました。しかし40歳を迎える頃、仕事を続けるのが厳しいと感じる出来事が起こりました。