4月1日にデビュー45周年を迎えた、歌手の松田聖子(63)。自身と同じ芸能の道に進んだ一人娘・神田沙也加に抱いていた思いとは。今も歌い続ける彼女の歩みを振り返る。(全3回の3回目/はじめから読む)

松田聖子 ©時事通信社

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 松田聖子は1992年より自分で作詞を始めたのを機に、セルフプロデュースするようになった。自作の歌に合わせてステージ、衣装、髪型と、あらゆるイメージが泉のように湧いてきて、それを形にしていくことが楽しくて仕方がなかったという。もともとデビュー当初からフリフリの衣装を提案したりと、自身をプロデュースする才能には長けていた。

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 だが、この路線もしだいに行き詰まる。ちょうど私生活でも1997年に神田正輝と離婚、翌年に再婚するも長続きしなかったりと、不安定な時期だった。自分一人だけの力に限界を感じてか、1999年には、かつてCBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)で彼女を発掘して育ててくれたプロデューサーである若松宗雄にマネジメントをやってほしいと懇願し、個人事務所に迎え入れている。同年にはまた、80年代に「赤いスイートピー」など数々のヒット曲を生んだ作詞家の松本隆とのコンビを久々に復活させ、シングル「哀しみのボート」をリリースした。

離婚会見時の松田聖子〔1997年1月撮影〕 ©文藝春秋

 デビュー以来全速力で時代を駆け抜けてきた聖子だが、40代に入ると、ちょっと立ち止まって、まわりの景色を楽しんだり、色々な人と話したりしたいと思うようになっていた。当時、その理由を《もしかしたら、年齢は関係ないかもしれないけど……。娘が同じ仕事をするようになったからかな……。(笑)》と語っている(『婦人公論』2002年6月22日号)。

一人娘の芸能界入りに反対した理由

 一人娘の沙也加は、聖子とロサンゼルスに住んでいた1999年、USC(南カリフォルニア大学)の卒業生が制作する短編映画『BEAN CAKE(おはぎ)』のオーディションに合格し、ヒロインを演じた。同作が2001年にカンヌ映画祭で短編部門のパルムドールを受賞したことから沙也加は一躍脚光を浴び、同年にはSAYAKA名義で芸能界にデビューする。

神田沙也加さん

 とはいえ、母親の聖子は、映画のオーディションのときこそ沙也加を応援したものの、彼女の芸能界入りには反対だったという。それというのも、自身が芸能界に入って、楽しいこともあったとはいえ、その反面つらいこともたくさんあり、同じ苦労をさせたくなかったからだ。