突如として訪れた、沙也加との別れ

 2011年には母娘で紅白歌合戦で共演もして、関係は良好とうかがわせた。しかし、その後、確執が頻繁に伝えられるようになる。そんな喧噪をよそに、沙也加は着実に俳優として実力を発揮していった。それが2021年12月、突如として彼女は逝ってしまう。

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 往年のスターには、家族の問題や病気などで寂しい後半生を送るケースが目立つ。たとえば、「戦後歌謡界の女王」と呼ばれる美空ひばりは、弟の不祥事から一家でマスコミの非難を浴び、公演やテレビから締め出された時期を経て、ステージママだった母親を亡くすと、晩年は闘病を続けながらもステージに立ち続けたことが一つの物語として語られている。

 だが、筆者は、松田聖子だけはそうした悲劇とは無縁だと思っていた。沙也加との確執も、時が解決するものと信じていた。しかし、和解の機会はとうとう訪れなかった。沙也加のことを生まれたときから知っていたにすぎない筆者を含む多くの第三者でさえ、その死には相当のショックを受けたのだから、母親である聖子の心情はいかばかりであったか、想像するにあまりある。引退を考えてもおかしくはなかったはずだ。

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それでも歌手をやめることはなかった

 だが、それでも聖子が歌手をやめることはなかった。沙也加を亡くした4ヵ月後の2022年4月には、都内のホテルでのプレミアムディナーショーでステージに復帰する。このとき、娘の思い出などを時に涙声で語りながら、かつて紅白で親子で歌った坂本九の「上を向いて歩こう」のカバーなどを歌い上げたという。同年6月からは全国ツアーにのぞみ、初日には沙也加をしのんでその歌手デビュー曲「ever since」を歌った。

 シングルは2016年より、オリジナルアルバムも2021年以降リリースがないものの、昨年にはジャズアレンジによる「赤いスイートピー」のセルフカバーを含むカバーアルバム『SEIKO JAZZ 3』を発表している。

松田聖子『SEIKO JAZZ 3』(2024年)

自分の本領は「きらきら輝くポップス」

 聖子は歌手としてデビュー以来一貫して、ファンに楽しんでもらうことに徹してきた。自分の本領は「きらきら輝くポップス」と肝に銘じ、アメリカで新たな挑戦を続けながらも、日本のファンに向けては親しみやすい曲づくりを心がけた。

 コンサートツアーでの恒例のヒットメドレーでも、かつて「青い珊瑚礁」のアレンジを変えませんかと言われたことがあったが、《あのままをみんなと一緒に歌うことがいいんじゃないかと思う》として変えなかったという(『COSMOPOLITAN』1998年6月号)。

 2001年の全国ツアーでは、10年ぶりに訪れた土地でブランクを感じさせない盛り上がりとなり、彼女も感動して《ファンのみなさんと一緒に『赤いスイートピー』では涙の大合唱になりました》と振り返った(『婦人公論』2002年6月22日号)。沙也加が幼い頃に見て、表現することに憧れるきっかけとなったのも、そうした光景だったのだろう。とすれば、亡き娘のためにも、聖子は歌い続けねばならないといえる。

 デビュー45年のアニバーサリーイヤーである今年も6月から全国ツアーを控える。長いキャリアのなかで何度となく初心に返っては、新たな挑戦を重ねてきた聖子が、この節目にどんなステージを見せてくれるのだろうか。

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