4月1日にデビュー45周年を迎えた松田聖子(63)。日本で数々のヒット曲を生み出し、トップアイドルに上り詰めた彼女は、1988年10月、26歳の頃に全米進出に挑む。しかし、そこでは数々の試練が待ち受けていた。後年にはこの頃がデビュー以来初めての「挫折」だったと振り返っている。その背景とは……。(全3回の2回目/はじめから読む)
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メイクも髪型も派手でセクシーにしてアメリカへ進出
松田聖子は1985年のアルバム『sound of my heart』で初めてアメリカでのレコーディングを経験した。同作は海外進出を見据え、全曲を英語で歌い、また先行シングル「DANCING SHOES」のプロモーションビデオも制作された。しかし、このときは十分なプロモーション体制が組めず、全米デビューはかなわなかったという(若松宗雄『松田聖子の誕生』新潮新書、2022年)。それが1988年、ソニーがアメリカのCBSレコードを買収し、日本人アーティストをアメリカ進出させることになり、そのトップバッターとして聖子に白羽の矢が立った。
1988年10月に渡米した彼女は、ニューヨークに居を構え、まずはアメリカの文化・習慣を吸収するため現地で生活するというCBS側からの条件に従い、12月半ばまですごす。その後も、日本で用事があるたび帰国しつつも基本的に拠点はNYで、ロサンゼルスやマイアミに出かけてはレコーディングを行った。日本でのレコーディングとは違い、向こうは納得がゆくものができるまでひたすらに待つという姿勢のため、全米デビューアルバム『Seiko』がリリースされたのは1990年6月と、NYに移住してからじつに2年近くかかった。
拠点をNYに移したのは、アメリカで売り出すなら、こちらの文化・習慣を身につけてもらわないとセールス的に難しいというCBS側の意向からだったらしい。言葉も渡米する前から、きちんとした英語が話せるようになりたいとの彼女の意志で、文法から徹底して学んだ。
メイクや髪型も、ナチュラルメイクで清楚な感じでは「トゥー・ジャパニーズ(日本人的すぎる)」と指摘され、日本人の感覚からすると派手でセクシーなものが求められた。日本のポップカルチャーがアメリカでもそれなりに受け入れられた現在なら、もう少し違った展開もありえたのだろうが、当時は全米デビューするにはあちらの文化に何もかも合わせないと難しかったようだ。

