紅白落選、スキャンダラスな報道…数々の試練が襲う
この間、1989年には、日本では昭和から平成へと元号が変わり、のちにバブルと呼ばれる大型景気が絶頂に達するなか、世界では東西冷戦が終結した。この年は聖子にとっても大きな転機となり、夏にはデビュー以来所属した芸能事務所サンミュージックから独立し、個人事務所ファンティックを設立している。他方で、8年にわたったヒットチャートでの連続1位の記録は11月リリースの25thシングル「Precious Heart」でストップし、彼女は大きなショックを受けた。紅白にもこの年初めて落選している。
試練はそれにとどまらず、アメリカでの彼女の動向が日本にはうまく伝わらなかったこともあり、夫婦関係や幼い娘を置いてきたことがとかく憂慮されたり、向こうでの男性との交遊が取り沙汰されたりと、マスコミからの風当たりは強くなるばかりであった。スキャンダラスな報道とバッシングはその後も彼女につきまとうことになる。
こうした日本国内の反応に対し、彼女は当時、女性誌のインタビューで《日本という国はとっても難しい国で、私がこうやってアメリカからレコードを出そうということも素直に受け入れてもらえてないなという気がするんです。でも、何かの間違いで大成功しちゃったら(笑)、「やっぱりスゴいことやった」ってすべてが許されるのかもしれない。ただ、それまでの過程に対しては応援どころか、とても厳しいですよね》と心情を吐露していた(『COSMOPOLITAN』1989年11月号)。
もっとも、後年になってこのときの自身の態度を、《やっぱり、何もいわずに地味にやって、成功したときに初めて「ホラね、できたでしょ」ってみんなにいえばよかったのよね。(中略)そういう意味では、私にとって、いい教訓にはなってますけどね》と省みている(『JUNON』1995年7月号)。しかし、このときのアメリカ進出は鳴り物入りとなり、どうしても注目されざるをえなかった。
肝心のアルバム『Seiko』のセールスは、ビルボードの全米ヒットチャートで最高54位にまで入り、大成功とまでは行かないまでも失敗ではけっしてなかった。この結果について当の聖子は、《そこまでいったことは確かにすごいことだし、だけど、40位に入りたかったなという思いもあるし。でも、私と同じように新人のアーチストで、アメリカ人がいっぱいいて、(中略)その中で日本人である私が同じ土壌で戦って、そこまでいけたということは、それはすごいことだと思う。そういう点ではうれしいんです》と、喜びも半ばといった感じであった(『PLAYBOY』1990年12月号)。

