娘の沙也加ぐらいの年の子がいると、寂しさを覚えた
このときの経験について、その後も彼女の発言は揺れ動く。帰国直後のインタビューでは、NYでの生活について《いままで見えなかったものが、すごく、こう、パーッと開けたような思いがしたんです。自分のキャリアという面でもそうですけど、人生? 女として? そういうことを考える時間も持てた。普通の人として生きられたし、普通の生活もできましたから、すごーくよかった。何をしたいかということが、はっきり見えてきた》と、芸能界に入ってからというもの日本ではもうできなくなっていた普通の生活ができたとポジティブに捉えてみせた(『朝日ジャーナル』1991年1月4・11日号)。
東京とは違ってNYでは気楽に外出できるとあって、レコーディングの待ち時間のあいだなどよくあちこちを歩いた。だが、街に娘の沙也加ぐらいの年の子がいると、そちらにばかり目が行ってしまい、寂しさを覚えたという。そういうこともあって、アメリカ滞在中は常に孤独感を抱えていたのもまた事実だった。
デビュー以来初めての「挫折」
全米デビューまでの段取りも、けっして彼女の意向に沿うものではなかった。だからこそ、思ったような結果を残せなかったことに内心忸怩たるものがあったのだろう。のちには、次の発言にあるとおり、デビュー以来初めての「挫折」だったとも断言している。
《日本にいたときは、つらいと感じたり、自分を振り返る時間もなかったから、初めての挫折でした。つらい、帰りたいと思いました。(中略)行ったからにはやらなきゃという気持ちもあるんだけれど何をしたいのかまるでわからないんですよ。プロデューサーも曲もすべて決められていて、ただ言われるままにこなしていくだけの状態。それが本当に私にふさわしいのか、私のやりたいことなのかを考える暇もなく物事が進んでいく中で、『SEIKO』という全米デビューアルバムはできました》(『COSMOPOLITAN』2002年2月号)
そもそもこのときの全米進出は、企業の政治的な思惑から始まったものだった。そんな形でデビューしても成功しない、《向こうのスタッフが“このアーティストを手がけたい”って思ってくれない限り、結局は何も起こらない》と聖子は身をもって思い知ることになる。そして《今度もしアメリカでやるのなら、自分でデモテープ作って、レコード会社に“聴いてください”って持っていって、それで気に入ってくれて“このアーティストと契約したい”と思ってもらわないとダメだなって感じた》という(以上、引用は『JUNON』1996年7月号)。こうして彼女はアメリカへの再挑戦を期すと、1994年頃からプロデューサーのロビー・ネヴィルと組んでデモテープを作り始めた。それをレコード会社に持ち込むうち、A&Mレコードが挙手してくれたのだった。
