聖子の原点は、福岡在住の高校生だった1978年、CBS・ソニーと集英社の女性誌『セブンティーン』が主催する「ミスセブンティーン・コンテスト」に、桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を歌ったデモテープを応募したことにさかのぼる。これで書類審査を通り、出場した九州大会で優勝したものの、父親の猛反対で本選を辞退していた。しかし、九州大会での歌唱を録ったテープを、CBS・ソニーのプロデューサーだった若松宗雄が聴いて才能を見出したことから、一転して歌手への道が拓かれたのだった。こうしたデビューまでの経緯を思えば、聖子が再度の全米進出を目指しデモテープづくりから始めたのは、原点回帰だったともいえる。

デビューしたばかりの松田聖子〔1980年撮影〕 ©時事通信社

 このときネヴィルと制作したアルバム『Was It The Future』(1996年)は、クラブシーンで好成績を収めたものの、彼女はのちに《当時のアメリカのミュージックシーンを意識しすぎて、セクシーさが強調された「松田聖子」らしからぬ作品になってしまった……》と省みている(『COSMOPOLITAN』2002年2月号)。

SEIKO『Was It The Future』(1996年)

「もっと私らしい音楽をやるべきじゃないか」

 それまでアメリカに受け入れてもらうため、必死になってアメリカ人のようになろうとしていたが、そんなことは土台無理だと、2度目の全米進出で気づいたという。そこで《今はアメリカの音楽をマネするんじゃなく、もっと日本人にしかできない音楽、私らしい音楽をやるべきじゃないか、という気がしています》と考えを改めた(『COSMOPOLITAN』1998年6月号)。その上で、2000年代以降も海外に向けて作品をつくり続けている。

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 2020年代に入って、1970年代後半から80年代にかけての日本の都会的なポップスが「シティ・ポップ」と呼ばれ、海外でも人気を集めている。そこには同時期に聖子に多くの楽曲を提供した松本隆や松任谷由実、大滝詠一らの手がけた曲も含まれる。そう考えると、新たな形で彼女が世界的アーティストとしてリスペクトされる日も近いのではないだろうか。

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