しかし、沙也加は幼いころより、舞台袖で母親をずっと見てきて、芸能界というより表現することに強い関心を抱いていた。後年、母とそろって雑誌の取材に応えたときには、《大舞台で歌っている母を袖で見ていると、観客の方と母の心がつながっている様子がよくわかるんです。それはもう素敵とかのレベルではなくて、何かすごいことが舞台で起きているのを感じました》と語っている(『25ans』2007年11月号)。

 聖子は悩んだ末、若松に相談すると、《今、目標が持てない若者が多い中で、これだけやりたいことがはっきりしているんだから、やらせたほうがいい。可能性を閉ざすのは、フェアじゃない》と説得されたという(『COSMOPOLITAN』2002年2月号)。恩人の忠言により聖子はとうとう折れ、当時中学生だった沙也加には学校にはちゃんと行くと約束させた上、若松に彼女を預けたのだった。

若松宗雄氏 ©文藝春秋

娘は母の手を離れ「神田沙也加」として別の道を選んだ

 沙也加のデビュー後初仕事は江崎グリコ「アイスの実」のCM出演で、その挿入歌も彼女自ら作詞して歌い、大きな反響を呼ぶ。翌2002年には「ever since」でCDデビューも果たしている。しかし、その後、松田は若松と、沙也加の歌手活動の方向性をめぐって対立し、お互いに何とかすり合わせようとしたものの、最終的に母娘で彼のもとを去るにいたった。

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SAYAKA「ever since」(2002年)

 この時点でまだ未成年だった沙也加に、聖子はステージママぶりを発揮したものの、反面では《彼女の中には、「母とは違う」という意識があると思うんです。母はああやって、あんなふうに仕事をしてきたけれど、「私は私、私はこうなるんだ」という自分らしさのイメージがはっきりあるはず。それは、見ていてよくわかります》と見抜いていた(『LEE』2003年8月号)。

2003年、松田聖子の全国ツアーにSAYAKA(当時)が登場し、親子ツーショットを披露

 それだけに、その後、沙也加が母親の手を離れるのは自然の流れであったのだろう。やがて沙也加は、2004年に宮本亞門演出のミュージカル『INTO THE WOODS』で初舞台を踏んだのを機に、ミュージカル俳優に針路を定めた。2006年からは本名の「神田沙也加」で活動するようになる。

 それでも仕事を離れたところでは親子の仲は良く、同居していた聖子の母(沙也加にとっては祖母)から、夜遅くまでしゃべったりしていると一緒によく怒られたという。このころ聖子は、自分と沙也加の違いを次のように説明しながら、娘を褒め称えていた。

《彼女と私では、仕事にとりくむときの方法論がまるで違います。お芝居でも、私は台本を読んで把握したら、あとは感覚にまかせるタイプで、いわゆる直感型でしょうか。娘は完全に分析型で、台本には彼女が演じる役の緻密な人物分析がびっしり書き込んであったり、気持ちの動きを折れ線グラフで示してあったり、本当にすごいんです》(『婦人公論』2008年4月7日号)。