初対面で「君はいまマンガ、何読んでるんだ?」
――それで連載が始まるわけですが、福元一義さんという当時のチーフアシスタントの著書(『手塚先生、締め切り過ぎてます!』集英社新書)によると、手塚先生は非常に乗り気で、第1回の原稿も早めに上げてきたそうですね。
池田 それはもう最初だけですね。始まってしばらくは、ストックが3、4週分ぐらいはあった時期もあったらしいんですけど、たぶん3カ月もしないうちに自転車操業になって、本当に大変だったと思います。とくに初代の担当者は、柳田邦男さんの『零戦燃ゆ』と手塚さんを一緒に担当して、もう憔悴し切っていて。だからその人のためにも、活きのいいのをつけて、ちょっと負担を軽くしてやろうということで、2年目だった僕が行かされたんじゃないかと思います。
――担当になって初めて手塚先生に会ったときの印象は覚えてらっしゃいますか。
池田 やっぱり僕らにとっては神様みたいな人ですから、すごく緊張しながら高田馬場(の手塚プロダクション)に行ったんですが、実際、目の当たりにすると強いオーラを感じました。でも、先生はわりと気さくに話しかけてくれて。「君はいまマンガ、何読んでるんだ?」って、こっちの緊張をほぐしてくれるようなことをおっしゃったり、『なぜか笑介』(聖日出夫氏のサラリーマンマンガ)が何であんなに売れるんだみたいなことを訊かれたり。自分よりはるかに若い描き手の作品がいまどう読まれてるかをすごく聞きたがってましたね。それはそれで驚きました。まったく巨匠然としてない感じだったので。
「それがないと描けません」
――『アドルフに告ぐ』は資料も徹底して調べて描かれたそうですが、池田さんが協力することも多かったんじゃないでしょうか。
池田 そうですね。マンガは文字の資料だけではだめで、ビジュアルの資料を極力どう集めるかっていうのが重要なんです。うちの会社には資料室があって、昭和史の写真集なんかはすでにあったんですけど、先生から「戦前に神戸の居留区に住んでた外国人の女の子たちがどんな服を着てたのか知りたい」とか言われて、そういう資料を探すのが大変でしたね。だから暇さえあれば神保町(の古書店街)に行って、ニュース写真集的なものを漁ったり、服飾史の大きい事典を買ってみたり、何か役に立つものはないかってのぞいてました。
――事前に用意しておくだけでなく、執筆中にいきなり頼まれることもあったわけですね。