「おまえでいいから何か絵を描いて持ってこい」
――ちなみに『アドルフに告ぐ』と同時期には先生はどんな作品を描かれていたんですか。
池田 あのときはまず、小学館の『ビッグコミック』で『陽だまりの樹』を連載していて、あと、『ブッダ』(潮出版社の『コミックトム』で連載)もありましたし。それ以外にイレギュラーですけど、秋田書店だから、あれは『ブラック・ジャック』(当時は『週刊少年チャンピオン』で単発で掲載)かな。講談社の全集の仕事もあったので、時間を確保するのが大変でした。
――そんななか原稿は締め切りどおり金曜に上がってきたんですか?
池田 金曜にもらうってことはまずなかったんじゃないかなあ。本当にいつもギリギリで、手塚プロに3泊4日は当たり前。土曜とか日曜ぐらいまで原稿がアップしなくて、諸先輩に謝りながら台割を変えてもらって、それで何とか着地するようにしたりとか。だから担当しているときにデスクにはほぼ一生分怒られましたね。「おまえでいいから何か絵を描いて持ってこい」とか。こちらも怒られるのはいやなので、そのうち、実際はまだ4ページもできてないのに「いま6ページ行ってます」とかデスクにウソをつくようになったりして……。手塚番になってからですね、会社にウソついてもいいんだって思ったのは(笑)。とにかく原稿さえ入れれば、過程はどうでもいい。何としてでも10ページ耳揃えて入れるのが、自分の仕事だと。
――原稿を上げてから、先生が直したいと言い出したことはなかったですか。
池田 あったけど、「無理です」って言ってましたね。認めちゃうとまた1日遅れるという話になりかねないので。でも、そのときは本当に口惜しそうでしたけどね。自分の納得いかないものが人の目に触れるのはいやだみたいなのは、やっぱりあったんじゃないでしょうか。とにかく作品に対するこだわりはすごかったですから。コマ割りに関してはとくにそうでしたね。いったん描いたページをバラバラに切ってコマ割りを変えるとか、そういうのはしょっちゅうやってました。おかげで一度、ページ数がわからなくなっちゃって、会社に原稿を持って帰って確認したら1ページ足りなかったということがありました。まあ、その場で気づかなかったこっちが悪いんだけど、あわてて手塚プロに戻って、ワンカット描いてもらって何とか間に合わせたりとか、そういうことは多々ありましたね。こちらとしても、何か失敗しても、しちゃったことを悔やんでもしょうがないから、どうやってそれをクリアしていくかっていう応用力みたいなものは鍛えられたような気がします。
(【続き】「最初に会った天才で、最後に会った天才」“マンガの神様”手塚治虫番をした20代の若者の“その後” へ)