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終戦、75年目の夏

2020/08/19

池田 まあ実際、文春は当時、コミックのノウハウはなかったですから。僕も営業で書店に行っても、コミックの担当者は知らなかったんで、逆にああいう形にしてくれたおかげで、一般書の担当者にこれ面白いよと勧められたと思うし。それから、あのときは何と言っても、NHKの教育テレビの『ETV8』だったかな、そこで川本三郎さん(評論家)が紹介してくれて火がついたって記憶がありますね。初版が出て重版がかかるまでにはちょっと時間が空いたような気がするんですが、テレビで紹介されて注文が来るようになって。

――単行本は全4巻が85年中に出てますよね。連載が終わって急ピッチで単行本にする作業が進められた感じですね。

池田 そうですね。それでもかなり描き足した部分があったりして、単行本の担当編集者は手塚プロに押しかけて行って「早く原稿をください」とかずいぶん言ってたらしいですけどね。

商店街へ自転車で行く手塚治虫(1970年撮影) ©文藝春秋

「週刊文春」でもう一度連載したい

――連載が終わってから手塚先生に会う機会はありましたか。

池田 営業に異動してからも、手塚プロには『アドルフに告ぐ』のご報告とかで色々行ったりしてたんで、たまにお目にかかることはありました。それでも『ルードウィヒ・B』とか『ネオ・ファウスト』とかまた新しい作品を始めてたんで、そんなにゆっくりお話をする時間もなく、「いまどうしてるの?」とか、ちょっと話をするぐらいでしたね。

――『週刊文春』の次の連載の話もされていたそうですが。

池田 うん、もう一度やりたいみたいな話はしてました。「僕が担当でなければ、ぜひ」みたいなことは言ってたんですけど(笑)。すでに編集長は花田(紀凱氏。現・『月刊Hanada』編集長)に交代してたので、彼には一応、「先生はやりたいって言ってるんですけど、どうします?」って訊いたら、「いやー、ちょっと……」と。「人的資源がかかりすぎるから難しいかな」とも言われましたね。花田は花田で、別の人でゴルフのマンガをやろうと少し動いてたみたいですけど、結局それも実現しなかったです。

――先生のほうでは次回作について具体的な構想はあったわけですか。

1984年撮影 ©文藝春秋

池田 僕が聞いてるかぎりではなかったですね。そういえば、『アドルフに告ぐ』で文春漫画賞をもう一回もらえないのかなって訊かれたことがあって、僕が「あれは直木賞なんかと一緒で、一度もらったらそれきりなんですよ」って言ったら、すごく納得してない顔をされてました。

 それでも、『アドルフに告ぐ』で先生に菊池寛賞をあげてたら、いま、マンガの受賞者はもっと増えたんじゃないかなとは思いますね。実際、そういう話も出たけど、当時の(文藝春秋の)社長が「マンガなんかにあげられるか」って反対したので実現しなくて。先生がもらってないのに、さいとう・たかをさんとか藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄A)さんたちがもらうのも変だろうって、それっきり何となくモヤモヤした感じで来ちゃった。加藤芳郎さんとかコママンガの人たちは文春漫画賞の選考委員をやったり、仲がよかったので、菊池寛賞をもらってる人は何人かいるんですけど、ストーリーマンガにはちょっと冷たいところがありましたね。そういう意味もあって、手塚先生はもう一回『週刊文春』で連載したいっていうのはあったんじゃないかな。

「最初に会った天才だし、たぶん最後に会った天才」

――池田さんにとっても手塚先生を担当された経験は大きかったと思いますが、いま、編集者としての人生を振り返ると、どんなふうに位置づけられますか。