「ヒトラーにユダヤ人の血が流れていた」説はフィクション
本作で重要なモチーフとなるヒトラーにユダヤ人の血が流れていたという話は、『週刊文春』の2代目担当編集者・池田幹生が聞いたところでは、集英社からそういうノンフィクションが出ていたことから編集部側より提案したものだという(インタビュー前編を参照)。おそらくそのノンフィクションとは、アメリカの作家ジョン・トーランドの『アドルフ・ヒトラー』と思われる。1979年に集英社から邦訳(永井淳訳)が刊行された同書の上巻ではたしかに、ヒトラーの祖父がユダヤ人だった可能性が示唆されていた。
ただ、この説は現在でははっきり否定されている。イギリスの研究者イアン・カーショーの手になる評伝『ヒトラー 上 1889-1936 傲慢』(川喜田敦子訳、白水社、2016年)によれば、これはもともと1920年代にミュンヘンのカフェでささやかれていた噂を、後年外国メディアがとりあげて広まったものだという。さらに第2次大戦後、あるナチの有力法律家が処刑前に口述筆記させた回想録のなかで言及したため、真剣に検討された。しかし、その記述には事実と異なる点が多々あり、まったく説得力がないとカーショーは断じている。
手塚本人は『アドルフに告ぐ』の単行本のあとがきで、ヒトラーがユダヤ人の血を引いている説があるという記事をどこかで読んだことがあり、そのアイデアを構想に加えたと書いている(※4)。他方で、手塚はドイツを旅行中にこの説を耳にしたとする悦子夫人の証言もある(※5)。ともあれ、編集部サイドからの提案だったにせよ、手塚がどこかで読んだか聞いたかした話であるにせよ、この説がわりあい世間に流布していたものであることは間違いない。手塚はここからさらに話をふくらませ、壮大なスケールのフィクションに仕立てあげたのだ。
フィクションとはいえ、けっして荒唐無稽に感じられないのは、史実をきちんと押さえているからだろう。連載当時の『週刊文春』編集長の白石勝は、連載に入る前に、手塚から戦前・戦中の日本とドイツおよび日独関係、ユダヤ人問題の資料を可能なかぎり読みたいとの要望を受け、200冊にあまる本を届けたという。一方で、主舞台となる神戸とベルリンの資料になるようなものは戦災で大半が焼けており、集めるのに難渋したようだ。そこで当時の関係者や子孫にも話を聞いたり、写真を提供してもらったりした。戦前の神戸については、どうにかドイツ人学校の元校長を見つけて、さまざまなヒントやアドバイスをもらったとか(※5)。このほか、前出の池田によれば、戦前の警察署を描くため、初代の担当編集者が、当時の面影を残していた京橋警察署を訪ね、取調室や留置場を写真に撮らせてもらったこともあったという。