みじめな敗戦と、哀れな肉親の死への復讐心
まず考えられるのは、戦争の激化に伴う敵に対する敵愾心と敵兵に対する憎悪の高まりだ。土屋公献・見習士官は、ヴォーン少尉が殺害された日の夜、当直将校として徹夜の勤務をしていたとき、こんなことがあったと「弁護士魂」に記録している。
「深夜に2人ほどシャベルを持った兵隊を、警備の兵隊が捕まえ連れてきた。『どうしたんだ』と問いただすと、捕虜を埋めた穴から遺体を掘り出して、その肉を食おうとしたという。その兵たちの言い分は、『自分の兄貴がガダルカナルで無残にアメリカに殺された。飢え死にしそうになって倒れているのを戦車でひき殺された……非常にかわいそうな死に方をした。その敵討ちをするんだ。そのためには捕虜の肉でも食らってやる』と考えて掘り出そうとしたのだと、そういうせりふだった。それは表向きで、本当は腹が減っていたのだと思う」。実際にもそうだったかもしれないが、現実に父島には相当の食糧が備蓄されていたことが後で分かったと土屋氏は書いている。
彼は実際に人肉食が行われていたことを知らなかったようだ。それでも、みじめな敗戦と哀れな肉親の死への復讐心が人肉食の動機の一端になっていたことは否定できない。国内では全国の街が空襲の被害に遭っていた。父島から約270キロ離れた硫黄島では友軍が玉砕の岐路に立たされていた。焦りもあっただろう。
「どうせ死ぬのだから、何をやってもいい」
次に挙げられるのは、土屋氏がそのことを魚雷艇隊の司令(隊長)に報告したときの反応に表れた感情だ。「『食わせてやればよかったじゃないか』という、すごい返事が返ってきた。それほど戦地は殺伐として、誰もが生きて帰れないと思い込んでいて、何をやってもしようがないという心境に陥っていた。腹に入るものなら何でも食べてしまえという、そういうすさまじい境遇の中で、これからいつまで生き残っていられるのか、アメリカが上陸してきたらどうなるのかということを常に考えていた」(同書)。
どうせ死ぬのだから、何をやってもいい。どうなっても構わないという自暴自棄に近い感情が兵士の心に広がっていたのだろう。ところが、硫黄島が落ちると、アメリカ軍は沖縄に向かい「父島の軍事的価値はほとんどなくなったので」「味方からも敵からも見捨てられたような存在になってしまった」(同書)。それもまた、無力感と自暴自棄の感情を増幅させたに違いない。
加えて大きかったのは、日本軍特有のエリートと非エリートの分断と対立だったのではないか。