昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

連載昭和事件史

肺結核、徴兵検査、夜這い……なぜ村の秀才青年は残酷すぎる「津山三十人殺し」を決行したのか

「八つ墓村」のモデルになった「津山三十人殺し」 #2

2020/06/21

21歳の青年が猟銃と日本刀で30人を襲撃……82年前の世界的事件「津山三十人殺し」とは より続く>

 1935年の初めごろ、巡査採用試験か小学校教員検定試験を志して勉強を始めたが、病気が再発。経過がはかばかしくなかったところへ、「実母らの死因が肺結核にあったことを聞知したらしく、彼自身もまたその自覚症状に照らして同病にかかったものと自認するに至った」。その後も地区の医師から「左肺尖(せん)カタル」と診断され、自分で「開放療法」を実行したが、「肺結核をもって絶対不治の病と盲断する本人の信念はあまりにも強く、自己の症状を実際の程度以上に重患のごとく思い込んでいたように考えられる」と鹽田検事は書いている。

「当時の町民の結核に対する嫌悪の気持ちは並大抵でなく……」

 戦前の結核の猛威については、連載「昭和の35大事件」の「三原山投身繁昌記」解説でも触れた。終戦直後までは国民的な疾病で、1943年の約17万人をピークに死者は毎年10万人超え。1935年以降は死因の第1位を占めていた。特に若い世代での感染は強烈で、「20~24歳の死因の半分までが結核だった」ともいわれる。そのせいか、当時は一種ロマンチックなイメージさえ伴っていたという。睦雄も地域では秀才の誉れ高く、農家の青年にしては色白。イメージに合っていたのかもしれない。

©iStock.com

 それに対して地域の反応はどうだったのか。戦後、精神病理学の立場から現地調査を繰り返してまとめられた中村一夫「自殺 精神病理学的考察」が触れている。「部落には肺病患者が多いというわけではないが、肺病と癩病(ハンセン病)に対しては極端に嫌悪する風習があった。現加茂町長三島氏は健康対策に非常に熱心な人で、例えば保健所の結核検診の際、昭和37年の受診人員は全町民の99%であったとのことであった。三島町長の語るところによれば、当時の町民の結核に対する嫌悪の気持ちは並大抵でなく、結核は遺伝であると信じ、肺病患者が住んでいる家の前を通るときは、口や鼻をハンカチでおさえて通るような状態であったとのことである」

犯行の引き金になった、徴兵検査での「不合格」

 1937年3月、満20歳の成人を迎えた睦雄は正式に家督を相続。同年5月には徴兵検査に臨んだ。

「津山事件の展望」は、睦雄が「軍医より十分な静養をなすよう注意せられ、かつ書類に肺結核患者と記入せられたのを見てますます悲観し、自己の死期近きにありとなし、ここにかつて抱いた青春の夢はもちろん、闘病の気力や生きて行く希望すらも喪失し、全く自暴自棄の虚無の闇底に落ちていった」と書く。

「津山三十人殺し」は、睦雄が西加茂村役場に届けを出しに行った際、同じ地区の住民である兵事係職員に「わしは肺病ですけん、よろしくお頼みもうしますがの」と言ったと書いている。そして5月22日に津山市で行われた徴兵検査で軍医に結核と宣告されると、泣き出しそうな顔で「軍医殿、ほんまに結核ですけんの? もういっぺんよく診てつかあさい」と懇願。軍医に怒鳴りつけられると、服を着ながら「わしはやっぱり結核じゃった」と、同時に検査を受けた同じ村の男に話し掛けたという。それまで「肋膜炎」や「肺尖カタル」と診断されていたが、肺結核とは思っていなかったということだろうか。身体検査を総合した結果は「丙種」だったとされる。