新型コロナウイルスの感染拡大では、当初一部で「バイオテロでは?」といううわさが流れた。5月5日付日経新聞朝刊には、イギリス・エコノミスト誌の「生物兵器、高まる懸念 防衛後手」という記事が載っている。そこでは、「生物学的な脅威に対して、米経済と世界経済が脆弱なことが明らかになった。このことは、もし生物兵器による攻撃を受けたら、その打撃はとてつもなく大きくなることを示している」というアメリカの研究者の談話を紹介している。
今回はっきりしたのは、感染症の怖さは、病状が悪化して死に至ることもあるだけでなく、社会を不安と恐怖に陥らせ、人々を疑心暗鬼にさせて自粛と萎縮で心身に大きなダメージを与えること。そして、同じようなことが84年前の日本で起きていた。
死者は44人 静岡県浜松市で起きた「運動会の大福中毒」
空前の出来事なのに、記録にも人々の記憶にもあまり鮮烈に残っていない。歴史の中にはそんな事件や事故もある。静岡県浜松市で起きた旧制浜松一中の運動会での食中毒事件などは、その典型だろう。「浜松市史(三)」によれば、大福餅を食べて発症した人は実に2296人、死者は44人というすさまじい規模。「浜松市民を混乱と恐怖に陥れ」「新聞、ラジオなどを通して全国に報道され、国民の耳目を驚かした」が、東京や大阪から離れた場所だったことと、直後に発生した「大事件」に話題を奪われたからか。しかし現場には、のちに細菌戦部隊として知られる陸軍「七三一部隊」のトップとなる人々らが大挙して駆けつけていた。
奇妙なことに、警察の正史である「静岡県警察史」の事件の記述もわずか6行で「1400人が中毒症状、38人死亡」とあるだけ。浜松市史も記述は簡略。浜松一中の後身である県立浜松北高の「浜松北高八十年史」が、当時の「校友会誌」の記述も引用し、毎年恒例の運動会の模様から具体的に記述している。
浜松一中は1894年開校。5年制で計20クラス。生徒数は約1000人だった。「天気晴朗、青空には一片の雲もなく、浜一中健児の意気、いやがうえにも上がった」「生徒も教師も最大のリクリエーションを楽しみ」……。ハイライトは「三方原合戦」を模して、剣道着と面を着けた生徒が2組に分かれて戦う「野仕合」。「運動会は最高潮に達するのである」と当時の生徒の1人は回想している。
解散前に生徒は、恒例の6個入り1袋の餡(あん)餅を受けとり、帰路に就いた。翌日の11日は月曜日で代休。校友会誌の「経過概要」には「11日午後5時ごろに至り、本校生徒及びその家族に中毒患者あることを医師及び家庭の両方面より知るを得たり」とあるが、「八十年史」によれば、同中の日誌には、11日午後3時ごろ、浜松市田町の医院から学校へ「5年生3人が中毒の疑いがあるが、心当たりは?」と電話してきたのが最初だという。午後5時ごろ、宿直の教師が校長に連絡して大騒ぎになった。
陸軍の防疫研究室も猛スピードで原因究明を進めた
七三一部隊研究の第一人者である常石敬一・神奈川大名誉教授の著書「戦場の疫学」(海鳴社)はこの事件について詳しく記述している。