老女と次弟を殺し、末弟を精神病院送りに……犯人は“資産家御曹司の美青年”だった>より続く

 水谷はる殺しとの関連は東日と読売も4月26日付朝刊で報じた。読売は、富士郎が1928年の約2カ月間、松沢村上北沢に下宿したが、下宿先の家と知り合いだった主婦とその友人の水谷はるがよく来ており、富士郎とも面識があったことを書いている。

 さらに目立つのは、東日が「感慨無量です 聖教徒の気持で進みたい」の見出しで「護送の車中で富士郎の話」を「盛岡発」で載せていること。日本でも戦後すぐのころまではこうした容疑者報道が行われていた。東日は記者が護送中の急行列車に途中から乗り込んで富士郎に直接インタビューしている。「事件もこうなってしまえばおしまいだね」と問われた富士郎は「感慨無量です。このうえは神に仕える聖教徒のような気持ちで臨みたいと思います」と答えている。

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北海道から移送されて東京に着いた富士郎。車中写真が載った東京朝日

 また別の記事では「殺された省二郎も 老婆殺しの共犯か」の見出しで「殺害された省二郎は松沢の老婆殺しには共犯者である嫌疑が濃厚になってきた」としたうえで、「淀橋事件は無関係らしい」とこそっと書いている。

決め手は「殺害の数日前から穴を掘っていた」という供述

 富士郎は死体が発見された省次郎の殺害はすぐ認めたが、水谷はる殺しについてはなかなか自供しなかった。4月27日付東朝朝刊は「老婆殺しの主犯を 弟に塗る富士郎」の見出しで、捜査員の追及に「さんざんに手こずらせた挙げ句、省二郎と共謀してはるを殺害した事実も自白した。しかし彼はその主犯者は省二郎で、自分は手伝いをしただけで、全ては省二郎がたくらんでかかった凶行だということを主張して責任を弟になすりつけるよう努めた」と報じた。動機は「親元から相当の仕送りがあるにもかかわらず、品行が悪くて濫費したために金に困っての凶行であることが明らかになった」とした。しかし、「警視庁史昭和前編」によれば、水谷はるを殺して奪ったのは2円80銭入りのがま口と懐中時計だけだった。

 東日は同じ日付の紙面で、富士郎が「省次郎は生来口が軽いので、いつ老婆殺しを口外するかもしれぬことを恐れて計画的に殺害したことを自白した」と書いた。富士郎が省次郎を殺害する数日前から穴を掘っていたことを新三郎が供述していたことが決め手になったと思われる。