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「俺はシューパーマンだ」「マルクスなどは僕に匹敵するよ」

 結局、「新三郎は脅迫されてやむなく手伝ったことが認められ免訴に」(「警視庁史昭和前編」)。東京刑事地方裁判所で裁判が行われたが、ここで富士郎は奇妙な主張を展開する。「俺はシューパーマン(超人)だ。君たちのような俗吏にこの俺の気持ちが分かるはずがない」。そう言って「さんざん裁判官を手こずらせた」と、雑誌「話」1935年8月1日号に掲載された深海巌「狂人か谷口富士郎の正体」は書いている。

 同記事によれば、起訴後、公判を開くかどうかを決める予審の段階で、植松七九郎・慶応大教授による精神鑑定が行われた。その結果、母親の病歴が確認され、「被告人平素の精神状態は精神病学的見地よりすれば、相当高度の精神変質に属すべく、犯行もこれにより支配されたることは案ずるに難からざるなり」と認定。「母系遺伝による先天的病的不道徳症なることを強調」した。富士郎は予審から一貫して、水谷はる殺しは省次郎の犯行と主張。省次郎殺しについては予審まで認めていたが、公判準備段階で「帰宅したら死んでいた。省次郎のグループの者にやられたのだろう」と否認に転じた。そのため、再び精神科医2人による精神鑑定が行われた。その際の会話が「狂人か谷口富士郎の正体」に載っている。

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 富士郎はニーチェやショーペンハウエルの名前を持ち出して「超人主義」を論じ、「いま日本で被告のような超人は何人いるか」と問われてこう答えている。「安藤照、山本条太郎、森恪かなあ。西郷南洲、日蓮上人なども超人だ。外国ではダーウィン、メンデル、ガンジー。キリスト、ビスマルク、ヒトラー、ムソリーニ、トルストイ、ボードレール、レーニン、マルクスなどは僕に匹敵するよ」。

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これを、ロシアの文豪ドストエフスキーの小説「罪と罰」の主人公で、「選ばれた非凡な人間は社会道徳を超越する」という独特の犯罪論理を展開するラスコーリニコフになぞらえる報道もあった。

弟が入院した松沢病院へ

 医師2人は「拘禁性精神障害」の影響を指摘。(1)犯行当時においては精神上、著しい病的障害ありと認める証左はない(2)現在の拘禁生活からくる特殊の病的状態にあり、正常なる判断をなし、正常健全なる自由意思に従って行動すべき能力を持っていない――との鑑定を下した。

 これに基づいて公判は停止され、富士郎はかつて弟新三郎が入院していた松沢病院へ身柄を移され、1934年春から約1年間を過ごした。

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「鑑定された『拘禁性精神異常』が1年間の松沢生活によって治癒し、いわゆるシューパーマンの夢破れて彼が公判廷に立たされたとき、かつて公判準備手続きであれほど否認していたという省二郎殺害の事実を極めてアッサリと認めてしまったのであった」と同記事は述べている。

 身柄拘束から5年以上たった1935年6月3日、富士郎に死刑が求刑された。6月4日付東朝朝刊には「反社会性を指摘」の見出しで記事が載っているが、公判でも富士郎は省次郎殺しは認め、水谷はる殺しは省次郎の犯行として否認し続けたようだ。