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連載昭和事件史

2020/05/10

犯罪の陰に「妖艶なダンサー」?

 この事件ではそれまでも、そしてその後も、各紙はいろいろな殺人事件を富士郎らと結び付けて取材競争を展開。捜査に当たった警視庁も「余罪がないか」しつこく追及したようだが、結局立件できた事件はなかった。

「犯罪の陰に女あり」と報じた読売は5月5日付朝刊社会面トップで「殺人鬼富士郎を操った 背後の女遂に現る 上海まで渡歩き凄い異名ある 妖艶なるダンサー」の見出しで大きく報じた。「希代の特異性犯罪者富士郎(22)が惨虐極まる犯罪を敢行せる直接の動機は四囲の全般的状況から推して必ず背後に女性が伏在しているであろうとにらんだ警視庁では」「連日の努力空しからず、遂にその一女性が判明するに至り」「その女性こそ、東京と上海をまたにかけて悪の華を咲かせているダンサー『白鞘のお文』こと」「佐藤文子(21)という妖艶な美人である」。記事には和服の女性のアップの写真が添えられているが、とても21歳には見えない。

「富士郎の犯罪の陰に妖艶なダンサー」を報じた読売

「新宿国華ホールで 富士郎と愛の囁き 美貌と派手好きからダンサーへ」の見出しに続く文章は「怪犯罪の主と妖艶な悪の華―それは奇しき巡り合わせではあった」で始まる。

 父親は弁護士だったが、彼女が高等女学校を卒業したころから家運が傾き、タイピスト養成所を経て銀行へ。「美貌に恵まれて派手好きの彼女は、ダンサーたらんとして翌(昭和)3年春、新宿の国華ダンスホールにダンサー見習いとして入った。そのころ富士郎は国華ホールの常連の一人として盛んに国華に通い続けており、二人は加速度的に親交を深めていったが、厳格な父からの送金は彼の分として月50円にすぎぬ。恋する女に弱みを見せたくないの一念に駆られ」犯行に及んだと記事は書く。

 当時のダンスホールは男女の社交場である半面、「風紀紊乱と犯罪の温床」として警察に目をつけられ、何度も手入れを受けていた。ダンサーはスカウトされて女優になった女性もおり、一種の時代の花形。

 記事によれば、事件後、「文子」は銀座のダンスホールに住み替え。「そこも1カ月足らずで上海に渡ってしまったが、何を思ったか去月、飄然と帰京した。警視庁当局では、文子がかく突然上海に渡ったのは、富士郎のそうした殺人行為を知ったためと見込み、近く召喚し、取り調べることになった」。そう書いた記事の後には、国華ダンスホール経営者の「相当若いに似ずすご腕の女でした」というコメントが付いている。

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 ところが、その後、この事件の報道はぱったり途絶える。5月11日付東朝夕刊には「富士郎兄弟の書類 検事局に送る」のベタ記事。5月10日、富士郎は水谷はるの強盗殺人と省次郎の殺人・死体遺棄、新三郎は省次郎の死体遺棄ほう助の容疑で検察に書類を送られた。記事は「その他の迷宮殺人事件や未検挙の強盗事件につき、取り調べを進めることになっている」としているが、扱いからみてその可能性がないことは明白だった。