「春秋園事件」の主導者・天龍三郎は現静岡県浜松市出身。16歳で出羽ノ海部屋に入ったが、きっかけは、当時出羽ノ海親方となっていた明治の大横綱常陸山が直々足を延ばして勧誘に来たことだった。
「こんな事態では相撲そのものがやがて衰微する」
「相撲風雲録」によれば、親方からは「常に力士は一個のサムライであるという毅然たる誇りを持って、まず技と共に精神を鍛えあげねばならぬ」と教えられた。
そのためもあって、以前から強い問題意識を持っていたようだ。同書にこう書いている。「関脇となってみて、相撲の内部生活の不合理さがいよいよ身にしみるばかりであった。力士がどうしても一個の職能人として当たり前の暮らし方ができないように、相撲社会そのものができあがっているのである」「何とかいまのうちにせねばならぬ。こんな事態では相撲そのものがやがて衰微する」「私一個の存意はようやく固まってきた。後は同志の獲得である」。
1931年3月、京都巡業の際に、「力士会の長老」大関大ノ里に話をした。「たしか10分か、いや15分間ぐらい考え込んでいたかと思う。やがて『やろう』と答えた」(同書)
新興力士団に影響を及ぼしていたある組織
一方、新興力士団には親方らを使った協会の懐柔工作以外にも手が伸びてきた。「関東国粋会」という右翼団体。以前から相撲界と関連があり、今回も仲介を買って出たとみられる。
公安調査庁が1964年にまとめた「戦前における右翼団体の状況 中巻」によれば、頻発した労資紛争に刺激されて関東、関西の土建業者や顔役たちが結成した「大日本国粋会」から分離、独立。1930年に関東国粋会を名乗った。「もっぱら皇室中心主義を持し、国体に背馳する思想の撲滅に主力を注ぐ」が綱領。
荒原朴水「大右翼史」は「事実上、関八州の関東侠客陣の流れを汲む純然たる任侠団体の集合であった」と書いている。1927~28年の野田醤油争議に介入。春秋園事件にも登場する梅津勘兵衛はのちに理事長になるが、クリスチャンで「最後の侠客」と呼ばれた。そうした“圧力”が力士団にも影響を及ぼし始める。