新興力士団の旗揚げ興行「大成功と言っても過言でない」
そして紆余曲折の末、新興力士団の旗揚げ興行が同年2月4日、東京・根岸の邸宅跡地に突貫工事で造られたテント張りの相撲場で開催された。大相撲の東西制や横綱、大関などの名称を廃し、6日間の個人競技に。31人をABCの3クラスに分け、総当たりでそれぞれ優勝と順位を決める方式。
「何もかも新味横溢 華々しい旗揚げ 楽隊、観衆の声援も賑はしく ザンギリ頭の大熱戦」。2月5日付東京朝日夕刊は好意的に報じている。東京日日も「人気上々、新興力士団の旗揚げ興行」の見出し。「新興力士の意気まさに衝天、相撲場付近の町は紅白の幕を張ってお祭りのような騒ぎ」と伝えた。
相撲ファンの“判官びいき”もあってか、「昭和大相撲騒動記」によれば、初日だけで入場者は4700人超。「天龍は『大成功と言っても過言でない』と評価した」(同書)。
天龍の方針に対する反発が強まった
しかしこのころ、別な動きも起きていた。大相撲で残った東側力士のうち14人が伊勢神宮参拝に行き、そこで「革新力士団」を結成。名古屋の支援者宅に籠城して協会に反旗を翻した。
これに対し、大日本相撲協会は幹部の体制を一新して、延期していた春場所を2月22日から8日間開催。番付から幕内、十両が計22人いなくなったため、十両から3人、幕下から5人を幕内待遇に引き上げた。西十両6枚目から引き上げられたのが、のちに69連勝を記録する名横綱・双葉山だった。
新興力士団は革新力士団との提携に成功。3月19日から大阪で新興・革新合同大阪場所を開催し、好評だった。東京・蔵前でも両団体合同場所を開き、両力士団は新たに「大日本相撲連盟」を結成。帯同して全国巡業に出た。しかし、その前に出羽ヶ嶽が、義兄弟の歌人・斎藤茂吉らの協力で協会に復帰。さらに巡業中に革新力士団の間に天龍の方針に対する反発が強まった。結局、革新力士団の力士の多くは協会に復帰。新興力士団からも復帰する力士が出た。
それでも天龍たち残った力士32人は大日本相撲連盟を解散して、大阪を拠点に「関西角力協会」を設立。1933年に独自興行を大阪、次いで東京でも実施した。そして、「満州・朝鮮慰問巡業」に出る。「昭和相撲騒動記」は「国内での興行が頭打ちになり、大陸に目を向けざるを得ない状態になったのだろう」と想像する。