事件をめぐって動いた人たちの意外な共通点
またこれより前、社会改革に関する意見交換の場として1918年に生まれた「老壮会」という組織があった。「戦前における右翼団体の状況 上巻」などによれば、アジア主義の思想家・大川周明と満川亀太郎が発起人で、毎月1回程度集まって時局を語り、講演会を開くなどしたが、1921年ごろには自然消滅状態になったとされる。
参加者は国家主義者から社会主義者まで雑多で、国家主義者系では北一輝、権藤成卿、笠木良明、社会主義者系は堺利彦、下中弥三郎、その他として大井憲太郎、草間八十雄ら。実はそこに茂木久平も社会主義者系の1人として加わっている。
そして、春秋園事件で武蔵山復帰をめぐって登場する岩田富美夫、清水行之助も国家主義者系として参加。さらに、参加者の1人で「純正国家主義」などの著者・角田清彦も天龍側の人物として事件に絡んでいる。つまり、事件をめぐって動いた人間たちはお互いに知り合いだったわけだ。
そこから筆者は、彼らが暗黙の了解のうちに“手分け”して協会側と天龍側に立ち、調停を図ったのではないか、という疑いを持つ。その場合、目的は相撲への愛に加えて、やはり金だったのではないか。
戦後の国会でも改革の必要性を訴え続けた天龍
茂木は、アナーキスト・大杉栄を殺したとされる元憲兵大尉・甘粕正彦と偶然知り合って親しくなり、敗戦まで、甘粕が理事長を務めた「満州映画協会」の東京支社長の役職にあった。のちに首相となる岸信介(当時「満州国」総務庁次長)とも知り合いだったことが「岸信介の回想」に書かれている。
天龍は引退後、「満州」に渡り、満州国政府の体育事業に関わる。それには満州国総務長官だった星野直樹の力が大きかったと「相撲風雲録」に書いているが、茂木と甘粕のつながりも背後にあったのではないか。
大日本相撲協会はその後、双葉山の快進撃や、騒動後に登場した新鋭力士の活躍で息を吹き返す。戦争を挟んで現在の日本相撲協会に変わり、繁栄と沈滞を繰り返すが、天龍らの訴えのうち、茶屋制度と親方問題、そして組織の体質はいまも本質的には変わらないままのように思える。メディアもその点に深くは踏み込まない。
天龍は戦後、協会と関係を修復しつつ、国会でも改革の必要性を訴えた。1989年8月、85歳で死去。朝日の訃報は社会面ベタ(1段)だったが、見出しは「『春秋園』事件 反骨の元関脇」だった。
#1 マゲを切って料亭に立てこもる力士32人……90年前の大相撲を騒がせた「春秋園事件」とは?
【参考文献】
▽和久田三郎「相撲風雲録」 池田書店 1955年
▽尾崎士郎「相撲を見る眼」 東京創元社 1957年
▽大山眞人「昭和大相撲騒動記」 平凡社新書 2006年
▽日本相撲協会博物館運営委員「近世日本相撲史第一巻」 ベースボール・マガジン社 1975年
▽「戦前における右翼団体の状況 中・上巻」 公安調査庁 1964年
▽荒原朴水「大右翼史」 大日本国民党 1900年
▽佐野眞一「畸人巡礼怪人礼讃」 毎日新聞社 2010年
▽岸信介・矢次一夫・伊藤隆「岸信介の回想」 文藝春秋 1981年