大相撲初場所も盛況のうちに終わった。

 最近は相撲ブームが続いているといわれる。確かに毎場所の土俵は連日「満員御礼」。人気力士への注目度も高い。しかし、外国人力士が増えて「国際化」が進んだように見える半面、暴力事件などの不祥事が頻発。土俵への女性の立ち入り問題など、前近代的とも思える体質は、現代社会の“常識”とあつれきを起している。

90年前の角界を騒がせた「革命」

 そうした伝統と因習が入り混じった相撲の世界で90年近く前、30人以上の力士がマゲを切って料亭に立て籠もる事件が起きた。給料引き上げや茶屋制度・親方制度の廃止など、土俵の近代化を求めたが容れられず、大日本相撲協会(当時)を脱退。大阪や東京で独自興行を続けたが、次第に人気を失い、結局、力士らは復帰したり廃業したりして「革命」は力尽きた。

ADVERTISEMENT

 彼らの要求のいくつかはその後も時折論議になったが、根本的には実現されないまま、課題として現在に至っている。「国技」の華やかな世界の裏側にそうした問題があることに目を向けるべきだろう。

©iStock.com

大相撲界の「革命児」天龍三郎による“爆弾十カ条”

 天龍といえば、筆者の年代だと、東京放送(現TBSテレビ)が大相撲中継をやっていたとき、辛口の解説をしていた天龍三郎だろう。そのころは、彼が大相撲界の「風雲児」「革命児」と呼ばれるほど“大それた”ことをやった人だとは知らなかった。その天龍が決起したのは大相撲の西関脇だった1932年の正月6日。場所は東京・大井町の中国料理がメーンの料亭「春秋園」だった。

「われわれは……大関大ノ里を筆頭に出羽一門の十両以上の力士合わせて32名……大井町の春秋園なる料亭2階80畳の“勤王の間”に会合し、次に述べる趣旨の要求書を協会に提出したのだった」。「文藝春秋」1957年6月号の「読物・大日本相撲協会」で天龍はこう書いている。さらに、1955年に出版した「相撲風雲録」では、10項目の要求を“爆弾十カ条”として説明している。要約して紹介する。

天龍三郎氏 ©文藝春秋