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連載昭和事件史

2020/01/31

春秋園事件の前にもあった「相撲の改革を求める」2つの動き

 相撲の改革を求める動きは以前もあった。大山眞人「昭和大相撲騒動記」は春秋園事件を中心に大相撲改革の流れに詳しいが、それによれば、明治初年、前頭筆頭の高砂浦五郎が「力士の窮状打破」「年寄らの金銭問題糾弾」を訴えて「改正組」を旗揚げ。5年後、要望の一部が受け入れられて収束した。1901年の春場所直前には、幕内力士数人が関脇以下の力士の同意を得て協会に要望書を提出した。

 内容は

(1)場所の総収入の1割を十両以上の力士に分配
(2)その一部を養老(資)金に

 の2項目。協会に拒否されたため、力士たちは東京・新橋の社交クラブなどに立て籠もり、相撲愛好家の黒岩周六(涙香)「万朝報」社長らに調停を依頼。和解に至ったが、当初要求より後退した和解条件も履行されず、うやむやにされたようだ(「新橋事件」)。

現在の新橋 ©iStock.com

 さらに1923年春場所前の1月11日、横綱、大関、立行司らを除く幕内力士や行司らが決起。養老金の増額を骨子とする要求を協会に突き付けた。協会は引き延ばしを図ったため、力士側は

(1)協会幹部改革
(2)決算報告の明確化
(3)相撲茶屋改革

 なども要求に追加。一時、東京・三河島の工場に籠城した。今度は警視総監が調停に入って解決したが、収拾案はその後起きた関東大震災などのため、実行されなかったとみられる(「三河島事件」)。

協会の回答は「一片の誠意も認められぬ体のものであった」

 こうして改革を求める力士らの運動はおおむね失敗に終わった。三河島事件当時、若手力士だった天龍は「だらしない結果」としながらも、「後年の私たちの運動にも、無論若干の参考になる事件だった」と「相撲風雲録」に書いている。要求書の内容説明にも三河島事件を教訓にしているところがある。

 結局、1月7日に天龍らに示された協会の回答は、「年寄制度、茶屋制度の廃止、力士協会の設立など、全て私たちが最も力点を置いた要求はほとんど黙殺か不同意、表現文字も極めて抽象的であって、協会側に一片の誠意も認められぬ体のものであった」(「相撲風雲録」)。9日、天龍らは全員の「脱退届」を提出。10日には「大日本新興力士団」を結成した。

1938年の大相撲・夏場所 ©文藝春秋

 これについて、事件から約40年後の1975年に出版された日本相撲協会の「正史」「近世日本相撲史第一巻」は厳しく評している。「財政難にあえいでいた協会の実情を把握せずに入場料の低減をうたい、切符販売に有効な方法である茶屋制度撤廃を叫んでも、これの受け入れについては絶対に即答はできない。年寄制度漸次廃止の要求は、自らの師匠、先輩をも切り捨てる下克上の態度であり、現役力士の利益のみを追求せんとする底意があまりにも露骨であった」

#2に続く

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