(8) 力士の生活を安定されたい
当時、私が相当の人気を持つ新関脇でいて、固定給として勘定をしてみると、月収70円内外であった(2017年の貨幣価値で約15万円)。これで女房でももらうとすればどうなるか。その力士が三役に進んですら到底一人並みの生活ができなかったのである。収入が極端に低いから、そこで力士は卑屈になり、旦那衆にペコペコ頭を下げ、玄関番(書生さん)以下の便佞阿喩(口先でおもねること)を重ねるほかない
(9) 冗員を努めて整理されたい
協会内部には実に無駄な役員(有給職員)が多い。職階性そのものが幹部のお手盛りで固まっているから、年寄に仕事(位置)を与えようとすれば、至って簡単にそれを増やしていく。なかなか高給らしい。こういうしきたりが積み重なって次第に冗員ができ、無用な金が消えている。おそらく昭和7年ごろも、いまの3分の1の職員で協会の全ての事務は十分に運営されていたであろう
(10) 力士協会を設立し、もっぱら力士の共済制度を確立されたい
従来も「力士会」というのはあったが、いざというと幹部力士(横綱・大関)は協会の側に付き、弱体なものになりやすい。本当の「力士協会」ができて、十両以上は1人1票、厳正な選挙によって代表者を選び、強力な組織を持つことができれば、力士相互の共済機関も生まれて、安んじて皆土俵に生きることができるであろう
以上、要求項目は10カ条にわたっているけれど、これらは大部分、皆共通の基盤を持ち、密接な連携を有している案件である――。
当時としては革新的すぎた提案
いま読んでも革新的な提案。いや、1世紀近く前の相撲の世界では進みすぎていたのでは、との感は否めない。天龍が主導した運動に、当時の新聞は総じて同情的だった。「角界内部から、突如 積弊大廓清運動起る 十ケ条の要求を提出」の見出しを付けた1932年1月7日付東京朝日夕刊の記事はこう書き出している。
「相撲界多年の積弊は、さきに武蔵山をして拳闘界への転身まで決意させ、この積弊に対する力士多数の不満は日を追うて内昂し、その爆発は時の問題とされていたが、果然5日の春場所番付発表を機会に、西方の人気力士武蔵山、天龍、大ノ里以下が結束して、この積弊打破のため起つことになり、西方幕の内及び十両力士一同は6日正午すぎ、稽古が終わるとともに三々五々出羽ノ海部屋を出で、京浜沿線大井町駅前春秋園に秘密裡に会合……」。
相撲より高まる拳闘の民衆的人気
7日付朝刊も「角界空前の大騒動! 4力士要求書を提出 協会側極度にらうばい(狼狽)す」「親方にひきかへ 生活苦の力士連 協会の台所は滅茶々々」などの見出し。相撲好きで横綱審議会委員も務めた作家・尾崎士郎はエッセイ「相撲を見る眼」で「当時ジャーナリズムと対立状態にあった協会は宣伝能力の大半を殺がれ」と書いており、その点からも、新聞は騒動を好意的に見ていたのだろう。以後も天龍らの一挙手一投足を細かく伝えている。
ここで当時の大相撲の事情を説明しておかなければならない。年6場所、1場所15日間という現行の形になったのは戦後の1958年。明治以降、東京での相撲は原則1月と5月の年2回、各10日間だった。それが1925年、東京と大阪に別れていた団体が合併して「大日本相撲協会」が発足。1場所が11日間となったうえ、東京と大阪で2回ずつ、年4回の開催に。
出羽ノ海部屋の全盛期で、西方の力士は全員が同部屋。東方は他の部屋所属の力士が入り交じっていた。つまり、春秋園に集まった出羽ノ海部屋の幕内、十両計32人はそのまま、前日発表された番付の西方の力士全員がすっぽりいなくなったことを意味する。
それでなくとも、当時は関東大震災と昭和恐慌のあおりもあって相撲人気はどん底。「相撲を見る眼」も「相撲の魅力がおとろえて、拳闘の民衆的人気がこれに代わろうとする時代」と書くほどだった。協会が「上を下への大騒ぎとなり」(1月7日付東京朝日)、慌てふためいて対応に苦慮したのは当然だった。