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理想の地は「地獄」だった 大粛清時代・ソ連へ渡ってしまった男女の悲劇的な真相

この時代の越境は「地獄の中に飛び込んだものであった」――岡田嘉子の越境 #2

2020/01/16

戦後初めて伝えられた嘉子の消息

 戦後、嘉子がモスクワの放送局でアナウンサー兼プロデューサーのような仕事をしていることが伝わっていたが、消息が正確に報じられたのは1952年。日本人として戦後初めてモスクワを訪問した高良とみ参院議員が面会。同年7月2日付朝日新聞朝刊には、高良議員らと一緒に写った写真とともに「結婚した岡田嘉子」の見出しで記事が掲載されている。

戦後初めて伝えられた嘉子の消息と写真(東京朝日新聞)

 その後、ソ連を訪問するかつての知人らと面会していたが、ソ連での結婚相手でやはり戦前、映画スターとして活躍した滝口新太郎が死去。その納骨のために34年ぶりに帰国したのは1972年11月だった。それから何回か両国を往復。その間、山田洋次監督の松竹映画「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」や舞台にも出演した。

「その知らせはあまりにも最悪でした」

「悔いなき命を」によれば、ソ連の国境警備隊詰所でのことを「三日ほどたったのち、私だけがどこかよそへ連れて行かれることになったときは、さすがの私も杉本にすがりついて泣きました」と書いている。杉本は「すぐにまた逢えるからね」と言ったが、「それっきり私たちは二度と再び相逢うことがなかったのです」(同書)。

34年ぶりに帰国した際の東京朝日の報道

 独房のような所に「三カ所ぐらいはあちらこちらへ移されましたが、それがどこだったかは、ロシア語が分からないのだから知りようがありません」。そしてこう書いている。「こんな生活が二年近くもたったころ、突然呼び出されました。その知らせはあまりにも最悪でした。風邪のあと肺炎になって死んだというのです。死に目にも遭えなかった!」。

 そして中央アジアの町で数年暮らし、1947年にモスクワに出たとしている。日本とソ連を行き来する間に何度もインタビューを受け、越境後のことを聞かれたが、詳しく話すことはなかった。