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理想の地は「地獄」だった 大粛清時代・ソ連へ渡ってしまった男女の悲劇的な真相

この時代の越境は「地獄の中に飛び込んだものであった」――岡田嘉子の越境 #2

2020/01/16

杉本はスパイ容疑で処刑されていた

 1989年4月15日、モスクワ発時事通信電のショッキングなニュースが新聞夕刊に載った。「杉本良吉氏 実は銃殺 スパイ容疑、粛清の犠牲」(北海道新聞見出し)。リャボフというモスクワの現職検事補が、国家保安委員会(KGB)の文書に「杉本が銃殺された」という記述があるのを発見したことが現地の週刊誌に掲載されたという内容だった。

 記事によれば、2人は越境後、国境侵犯の容疑で内務人民委員部(NKVD=KGBの前身)の取り調べを受け、杉本は拷問の結果、日本の陸軍参謀本部から破壊活動のため派遣されたスパイと虚偽の自白を強制された。杉本は裁判手続きなしに処刑され、その自白からメイエルホリドにも嫌疑がかかり、彼も処刑されたという。

「女優 岡田嘉子」によれば、リャボフは嘉子の家を訪れて、その事実を伝えた。「その説明を聞いた嘉子は強烈な印象を受けたはずだが、それを表面には出さず、意外なほど冷静に聞き、リャボフの質問に対してロシア語でいちいち答えた。そして最後に言った。『杉本は病死したとばかり思っていた。あの時、死亡証明書ももらっている。死因は肺炎とあった。死亡の日付も違う』」。

 時事の記事に添えられた嘉子の談話も「もっと早く真実を教えてほしかった」となっていた。

戦後にアナウンサーとして活躍した岡田嘉子 ©文藝春秋

「杉本は私を助けるために罪を被った」

 1992年2月、嘉子はモスクワで老衰のため89年の波乱の生涯を閉じた。しかし、物語はそれで終わらなかった。4カ月後の6月、再び時事通信が、越境から2年後の1940年1月に嘉子が検察局と内務人民委員部宛てに嘆願書を出していたというニュースを配信した。

「嘉子の嘆願書」時事通信配信ニュースを掲載した北海道新聞

 それによれば、越境直後、「5日間、夜も昼も眠りを与えられない取り調べ」を受けて「精神状態に異常」を来たし、「スパイと言えばソビエト人とするが、言わなければ日本に帰す」と脅されて自白書を書いた。そのため、杉本に対する拷問は過酷を極め、「隣室で苦しさのあまり発する杉本の悲鳴が私の胸を刺した。取り返しのつかない後悔の念に死を願ったが、監視が厳しく許されなかった」とつづっていた。「杉本は私を助けるために罪を被った」とも。

 嘉子はハバロフスクからモスクワに送られ、1939年10月、軍事法廷でスパイ罪で10年の刑を受けた。杉本の処刑はその1週間前だったという。嘆願書はモスクワから約800キロ離れた強制収容所(ラーゲリ)で書かれ、「スパイの汚名は死ぬほどつらい」と再審理を直訴していたが、願いはかなわなかった。

 記事は「岡田さんの自白がもとで杉本氏も自らをスパイと認め、銃殺につながったことが判明した。軍国主義の日本を脱出し、あこがれの地ソ連に越境した二人は、当時吹き荒れたスターリン粛清の直接の犠牲者となった」としている。

 自らの自白が原因だったという事実は嘉子に重くのしかかり、生涯そのことを自分の口から明らかにすることができなかったと思われる。自伝「悔いなき命を」に書いた「中央アジアの町に住んだ」という話はほかのところでも述べていたが、あるいはKGBから言い含められた「物語」だったのか、真っ赤なウソだった。