歴史から消えた「コミンテルンとの連絡」
いまも残る謎の1つは、越境・亡命にどれだけ裏付けがあったかだろう。杉本の亡命は、同時に日本共産党に入党した宮本顕治・元委員長の指示だったとする見方がある。宮本元委員長自身、著書「回想の人びと」でこう書いている。
「杉本(良吉)は演劇運動の有能な演出家でありました」「こういう人たちを残しておきたい。それにはソ連にやっておこうと考えたわけであります」「1933年になりますと、弾圧は一層厳しくなって、コミンテルンとの連絡も容易でないということで、併せてコミンテルンとの連絡ということを考えたわけであります」「マンダートといって信任状、これは日本共産党員であると証明する文書、これを彼らに渡しました」。
正史である「日本共産党の五十年」にもこう書かれている。「コミンテルンとの連絡のために1938年1月、樺太の国境をこえてソ連にはいった杉本良吉も、逮捕されてその任を果たせないままソ連で死亡した」。
その後の「日本共産党の六十年」「日本共産党の六十五年」も同様の記述だったが、「日本共産党の七十年」では「コミンテルンとの連絡」が消え、「日本共産党の八十年」になると、「杉本良吉、岡田嘉子……」と、他の亡命者と十把ひとからげの書き方になっている。この間に杉本の銃殺と嘉子の嘆願書という新事実が明るみに出ており、そうした影響を考慮したのだろうか。
この時代の越境は「地獄の中に飛び込んだものであった」
加藤哲郎「モスクワで粛清された日本人」によれば、旧制東京府立一中(現日比谷高校)で杉本の2年先輩だった新劇界の大物・千田是也は著者のインタビューにこう答えている。
「気の毒なのは杉本良吉、岡田嘉子の1938年1月のソ連行きだった。自分たち新築地劇団(築地小劇場の流れを汲む別の劇団)のグループは、土方与志、佐野碩が追放になったのを、37年9月ごろに知っていた」「新協劇団の杉本はそれを知らずに、ソ連は天国だ、行けば土方・佐野と会えるだろう、メイエルホリドのもとで学べるだろうと信じてソ連に入ってしまった」。
同書はその時代の状況については次のように述べている。
「当時のソ連は、日本人であれば誰でも『偽装スパイ』を疑われるスターリン粛清のさなかであった。既に1936年11月に伊藤政之助、37年中に須藤政尾、前島武夫、ヤマサキ・キヨシ、国崎定洞、山本懸蔵らが逮捕されていた」「杉本良吉・岡田嘉子の越境は、その地獄の中に飛び込んだものであった」「二人の国境を越える夢は実現されたが、それは、敷居の極度に高い、別の国境に囲い込まれたものにすぎなかった。夢にまで見た『社会主義の祖国』への入国は、逮捕・拷問と銃殺・強制収容所によって迎えられた」
この事件にまだ謎は残っている。ただ、本人たちの情報収集や考え方に問題があったとは言えても、理想と思っていた国が実は地獄の地として、信じてきた人間を裏切り、死にも追いやる無残さは、死ぬまで真実を明らかにできなかった無念と重なって、80年余りたったいまも私たちの胸を打つ。
【参考文献】
▽キネマ旬報増刊「日本映画俳優全集 女優編」 キネマ旬報社 1980年
▽岡田嘉子「悔いなき命を」 廣済堂出版 1973年
▽平澤是曠「越境―岡田嘉子・杉本良吉のダスビターニャ(さようなら)」 北海道新聞社 2000年
▽加田顕治「岡田嘉子・越境事件の真相」 皇文社 1938年
▽升本喜年「女優 岡田嘉子」 文藝春秋 1993年
▽横手慎二「スターリン」 中公新書 2014年
▽「現代史資料(3)ゾルゲ事件(三)」(1962年)、「同(24)ゾルゲ事件(四)」(1971年)=いずれもみすず書房
▽宮本顕治「回想の人びと」 新日本出版社 1985年
▽日本共産党中央委員会「日本共産党の五十年」(1972年)、「日本共産党の六十年」(1982年)、「日本共産党の六十五年」(1988年)、「日本共産党の七十年」(1994年)、「日本共産党の八十年」(2003年)=いずれも日本共産党中央委員会出版局
▽加藤哲郎「モスクワで粛清された日本人」 青木書店 1994年