「不倫は文化だ」は、あのタレントが本当に言った言葉なのかどうか分からないが、不倫が世間から指弾される行為であることは間違いない。

 いまから約90年前、その重大さはいまとは比較にならないほどだった。「姦通罪」が刑法で定められていたうえ、家父長制度の制約が強く、「スキャンダルは一族の恥」とされ、社会全体の拒否感も強かったからだ。

 その中で、大財閥・三井の「大番頭」の娘の医学博士夫人が、日本とイギリスのハーフの新進オペラ歌手と恋に落ち、夫と2人の子どもを捨ててヨーロッパに逃避行。当時のメディアの話題をさらった。「世紀の恋」と呼ばれ、「近代日本総合年表」にも載っている。“事件”はどのように展開し、当時の人々にどう受け止められたのか―。

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藤原義江 ©文藝春秋

 われわれの世代で藤原義江というと、バカでかい声で日本と外国の歌曲を歌うクラシック系の歌手。藤原あきといえば、NHKテレビの「私の秘密」でややピントの外れた解答をするメガネのおばちゃん、といったところだろうか。その2人が同じ名字で、昔世間を騒がせた大恋愛をしたことを知ったのは、だいぶ大人になってからだった。いまの若い人には、よほどのオペラファン以外は耳にしたことのない名前だろう。

日本人離れした彫りの深いラテン系の容貌

 藤原義江には自伝が何冊かあるが、全面的には信用できないところがある。あきにはエッセー集はあっても自伝はない。根拠とするに足る「記録」がない。義江が書いたものや彼女のインタビュー、短歌、新聞記事などから、確かだと思われる経緯をたどり、2人の心情をうかがうしかない。

 藤原義江という人の一生を振り返ると、それだけで長大な物語になる。長崎のグラバー邸で知られるイギリス人トーマス・グラバーともつながりのあるイギリス人貿易商と、山口県・下関の琵琶芸者の間に生まれた(出生地は下関説、大阪説がある)。

 父母から見放され、学校にも満足に行かず、丁稚や給仕勤めを続けた後、沢田正二郎が立ち上げた新国劇に大部屋役者として参加。「戸山英二郎」の芸名を付けられたが、チャンバラの「その他大勢」ではパッとせず、当時全盛の浅草オペラへ潜り込む。日本人離れした彫りの深いラテン系の容貌と美声で、やや人に知られる存在に。