1993年12月25日にスキルス胃がんで亡くなった人気キャスター・逸見政孝(享年48)の長男で、『5時に夢中!』などの司会を務めたことで知られる逸見太郎(52)。

 そんな彼に、政孝氏のがん発覚時の状況、政孝氏ががんを公表した会見に対して抱いた思い、会見から3ヶ月後の逝去などについて、話を聞いた。(全4回の3回目/4回目に続く)

逸見太郎さん ©釜谷洋史/文藝春秋

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父の胃がん発覚当初は「軽いものかな」と感じていた

――1993年1月18日に受けた検診で、お父さんの胃がんが判明。太郎さんは、検診前にお父さんの体調などに違和感を抱くことはなかった?

逸見太郎(以下、逸見) 痩せたなとは感じていましたけど、それが病気と結びついているとは思いませんでしたね。局アナ時代はふっくらしていた印象でしたけど、人気が出て、注目を浴びることが増えて、人目を気にするようになってから少しシュッとしてきたのかな、という印象を受けたのを覚えています。

「カッコよくなったな」とまではいきませんが、「人目に触れることで、人ってここまで洗練されるものか」と驚いた記憶があります。

 ヘアメイクもIKKOさんに担当していただいて、見た目がとてもいい感じになっていたんですよ。さらには、洋服にはスポンサーさんが付いて、本人も大喜びで。

――太郎さんがお父さんの胃がんについて知らされたのは、いつ頃でした?

逸見 最初の手術までには聞かされていました。でも、自分のなかでは、そこまで死に直面しているような恐ろしいイメージがなかったんです。

 そもそもがんに対する知識もなかったので、家庭内の空気感もそれほどどんよりしていたわけではなく、どちらかというと「軽いものかな」という感じでした。今思うと、母が子どもの僕たち2人に対してあまり心配させないよう努めていたのかもしれませんね。

逸見太郎さん ©釜谷洋史/文藝春秋

「うちではこれ以上はムリ」手術をした病院からまさかの発言

――胃がん発見の際に「初期のもので切れば治る」と告げられ、93年2月4日に手術を受けたら「がんは初期のものじゃなかった」と。その手術の跡がコブ状のしこりになって、8月に切除手術を受けると、執刀医から「これ以上は私の力ではどうにもできません」と言われてしまっています。この間にセカンドオピニオンを受ける考えはなかったようでしたか。

逸見 父が親しくしていた方の紹介でその病院にかかるようになって、定期健診などなにかと診てもらうようになったんですよ。父は律儀な性格で「ここで診てもらって、ここで胃がんがわかったんだから、ここで治療してもらうのが筋だろ」という考え方の人なので、病院を変えようとはしなかったんです。

 でもその病院は、実は痔が専門なんです。今でこそ当たり前になってきましたけど、セカンドオピニオンという考え方はお世話になっている先生に失礼で、そういった選択肢を思いつきも、考えもしなかったんじゃないかなと思います。がんという病名を告知したり、公表したりすることも、当時では一般的ではなかったですし。

 結果的には父の件が告知の在り方やセカンドオピニオンの重要性、クオリティオブライフ(生きる上での満足度)について多くの方が考えるきっかけにはなったのではないかと思います。僕自身もこれらはとても大切だと思っていますし、その重要性は今後も声に出していきたいです。

 手術の後、父は「なんか、いつまで経っても硬いんだよね」なんてしこりのことを話してました。それでしこりを取る手術を2回やって、その後に病院から「うちではこれ以上はムリ」ということで、アメリカにいる化学療法の先生を紹介されて。