――泣きたいけど、泣けない。
逸見 素直に泣けないといいますか。これが52歳のいまだったら、「親父!」って泣き叫びますけど、当時21歳の自分にとっては相手が父ということもあり、気恥ずかしさのほうが勝ってしまっていましたね。
物心ついてから、握手なんかしたことなかったですから。あの写真で手を握っていたのが、初めてのちゃんとした握手じゃないかってくらいで。
――なにか、今後のことを言われていたりは。
逸見 「頼むぞ」的なことですか? いや、言われた記憶はありませんね。僕が見てきた闘病生活の中では、最初から最後まで、そういった言葉がでることは一度もなかったです。
「たけしさんは泣き崩れていたと聞きました」気持ちが追いつかないまま父の葬儀が終わり…
――お父さんが亡くなったことを、現実のものとして受け止められたのはいつ頃でしたか。
逸見 お通夜、お葬式の後ですかね。どちらも、山城新伍さんや(ビート)たけしさんがいらしてくださって、失礼があったらいけないと気を張っていましたが、もうなにがなんだかわからない状況でした。自分たちの気持ちが追いつかないままどんどん進んでいくというか。
お葬式って、忙しさに追われることで一時的に悲しみを和らげる、といいますけど、まさに忙しさと緊張感でその場にいるのに気持ちがどこか遠くにあるような感覚だったと思います。
目の前のことを理解しているけれど、実感として受け止められないというか、どんどん進む時間にただ追いついていくだけで。でも気持ちはおいてけぼりにされているような、そんな状態だった気がします。同時に、来てくださった多くの方々の言葉や行動に励まされたり、「こんなにも多くの人が父を大切に思ってくれていたんだ」と改めて感じていましたね。
たけしさんは、仮通夜にもいらしてくださって。僕はその場には居合わせていなかったのですが、泣き崩れていたと聞きました。
――お母さんの著書では、たけしさんは葬儀の手伝いも買って出てくれたと。
逸見 そうだったと思います。僕のなかでは、お通夜でもお葬式でも呆然とされている印象がありましたね。父とは、ひとりの友人として接してくれたというか。父も、たけしさんを本当に特別な存在だと思っていたようですし。
たけしさんと一緒にゴルフをする日が決まるたびに、子どものようにはしゃいでいましたから。「明日、たけしさんとゴルフだ」ってわざわざ言いに来ることもありました。そのときの表情が「あ、そんな顔するんだ」と驚いたのを覚えています。
そういう父の本気の敬愛みたいなものが、たけしさんにも深く伝わっていたんでしょうね。だからあれだけ心を寄せてくださったのかなと思います。