1993年12月25日にスキルス胃がんで亡くなった人気キャスター・逸見政孝(享年48)の長男で、『5時に夢中!』などの司会を務めたことでも知られる逸見太郎(52)。
そんな彼に、幼い頃の逸見家の様子、「イクメンとはかけ離れた父」だったという政孝氏の実像、小学校高学年から受けるようになったいじめなどについて、話を聞いた。(全4回の1回目/2回目に続く)
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普通のサラリーマンとは違う父
――いつぐらいから、お父さんが普通のサラリーマンとは違うなと意識を。
逸見太郎(以下、逸見) 小学校低学年くらいですかね。父がテレビに出ている人だとは把握していたものの、それがどういうことかまでは理解できてはいなかったですけど。
他の子の親や家とは違うんだなとハッキリと意識したのは、小学校の高学年からですね。中学に上がるちょっと前あたりで、いじめに遭ったりして。中学は公立に通っていたんですけど、先生から目を付けられたりもしましたし。そういうことをきっかけに「あ、うちがよそと違うからか」と。
――幼い頃に住んでいた家は、古い木造住宅だったそうですね。
逸見 古かったですね。もともとは母の叔父の家で。2階建てで、広さは15坪とか20坪くらいだったかな。2階に上がる階段も急でね。風呂場がなくて、シャワーだけという。ただ、隣が母の叔父がやっていた銭湯だったんです。なので、毎日その銭湯に行っていましたね。
「飯・風呂・寝る」の典型的な昭和のお父さんだった
――その家があったのが、世田谷の奥沢。世田谷でも、庶民的な地域ですよね。
逸見 大田区寄りのほうなんですよ。世田谷って聞くと、いまは高級住宅街のイメージがあるかもしれないですが、当時もいまも古い家が多いですし、僕が子どもの頃は畑もありましたからね。しばらくして、父が大田区の東雪谷に、初めてのマイホームを建てて、そちらへ引っ越しました。