1993年12月25日にスキルス胃がんで亡くなった人気キャスター・逸見政孝(享年48)の長男で、『5時に夢中!』などの司会を務めたことでも知られる逸見太郎(52)。

 そんな彼に、父親が有名人であったことの影響、高校を退学して留学した背景、留学中に政孝氏が建てた13億円の豪邸などについて、話を聞いた。(全4回の2回目/3回目に続く)

逸見太郎さん ©釜谷洋史/文藝春秋

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学校でイジメられても、父親から何か言われることはなかった

――中学校でいじめられたり、ボコボコにされたりしたことに対して、お父さんはどんな対応でしたか?

逸見太郎(以下、逸見) 特に何も言われた記憶はないですね。僕の状況を知っていた母から、いろいろ聞かされていたのかもしれないですし、母が父に心配をかけないために話していなかったのかもしれません。知っていたかどうかはわからないのですが、父としっかり話すことはなかったです。

 そのことは、いまだに僕はちょっと悔しいというか、引っかかっているというか。そうした父と子が向き合う機会、男同士の時間がなかったことに対して、当時「どんな風に考えていたんだろう」とは思います。両親ともに、親の背中をみて学びなさい、という教育方針だったんでしょうけど。

 妹は僕よりも父とのコミュニケーションがあったようなのですが、男同士だとかえって気恥ずかしいというか、会話が少なかった気がします。もう少し長く生きていてくれたら、成人して一緒にお酒を飲みたかったな、と思うこともあります。父は全くの下戸でしたが(笑)。

田園調布に住んでいた頃の逸見家(写真=逸見太郎さん提供)

高校でも「逸見政孝の息子だ」と声をかけられ…思春期はかなりきつかった

――高校でも、いろいろあったわけですよね。で、高校を辞めて15歳でイギリスに留学を。

逸見 都立の高校に入ったんですけど、そこでも「逸見政孝の息子だ」ってことで、校門の前で待ち構えられたりして。入学早々、他のクラスの子たちや上級生たちからひっきりなしに声を掛けられる状況がイヤで。

 中学時代とはまた違った形でしたが、常に「逸見の息子」であることが付きまとう環境が精神的にもつらかったですね。「逸見太郎」という自分自身で過ごせる環境を今まで以上に強く求めるようになりました。

 芸能人のお子さんだったら、私立の学校に行って、似たような境遇の子どもたちの中で過ごすことで「異質」な扱いを受けることは少ないのかな、と思いますが、うちは芸能人でもなく、サラリーマンであるアナウンサーの子どもでしたから。それなのに、知名度だけは芸能人と同じという状況で、思春期にはかなりきつかったですね。