「うちよりも著名人のご子息がいました」アメリカの大学に進学したあとの生活
――イギリス留学の最中である1988年、お父さんはフリーに。さらに活躍することになりましたが、そうした状況を把握してはいたんですか。
逸見 フリーになった後、活躍している状況は把握してなかったですね。フリーになる決断についても家族会議みたいな形で事後報告、決意表明を聞くという感じでした。
僕も海外生活、学校生活は順調に進んでいたので、もっともっと学びたい気持ちもありイギリスから米国へ拠点を移し、ボストンのエマーソン大学に入りました。
――当時はバブルだったのもあって、日本人留学生が多かったのでは。
逸見 日本人が多くて、ボストンの大学にも留学生たちのコミュニティがありました。ただ、なるべく、そのコミュニティには入らないように頑張って勉強していました。
――それは、日本人がいると「逸見政孝の息子」扱いされるからですか。
逸見 うちよりも著名人のご子息がいましたから、そういうのはなかったですね。せっかく海外にいるので日本と異なる環境づくりをしたかったことや、日本語を使う機会をなるべく減らして勉強に集中したいという気持ちが強かったからですね。
父のフリー転身と順風満帆だった中での胃がん発見
――1992年に、お父さんは事務所を兼ねた建築費13億円の豪邸を建てますけど、これについても詳しい話は聞いていなかった?
逸見 まず、新しい家を探していると聞いていて。「いい土地が見つかったから、建てるよ」となって、トントン拍子に決まっていった感じでした。そのころは最初の風呂なしの家から雪谷に建てた家に移り、そこからも引っ越しして、田園調布の借家に住んでいたんです。
田園調布の借家は、僕ら子供からしても充分に広くて普通に満足していたのですが、日本に帰ったら既に家が完成していて、大きさや細部のこだわりに驚きました。
――1993年1月18日に、検診でお父さんの胃がんが発見されます。それ以前に、体調の異変は見当たらなかった?
逸見 毎年、同じ病院で検診を受けていて、がん発覚の前年は僕が車で送っていて「来年から太郎に検診の送り迎えを頼むな」という雰囲気でしたし、僕もそのつもりだったのですが「いや、送らなくていい」と断られて。父と母2人だけで行ったんです。
やっぱり痩せていってましたし、もしかしたら本人は検診前からちょっとイヤな予感がしていたんじゃないかなという気がします。
撮影=釜谷洋史/文藝春秋
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