「エッ!」病室で父と握手したとき、声を上げそうなくらい驚いた理由
――9月16日の手術は13時間におよび、胃の4分の3を摘出。手術後、すぐに会ったのでしょうか。
逸見 あの年、僕は10月、11月、12月って、3回帰ってきてるんです。僕と父が病室で握手している写真がありますよね。あれを撮ったのが10月8日で、手術後に会った日で。
父の顔を見た瞬間に「かなり、やせ細ったなあ」と思いながら、握手をしたら「エッ!」と声を上げそうなくらい手の力が弱々しくて。ただ、手術は成功したとのことだったし「まあ、大丈夫だろう」とボストンに戻ったんです。
その後、11月に短い休みがあったので再び日本に帰った時に父から「おまえ、こっちにはどれくらいいるんだ」「1週間くらいかな」なんて話をして、出発の準備をしていたんです。ところが、先生から「お父さん、ちょっと危ないですね」と。「年末は越えられないかもしれない」とも告げられて、その時初めて「そんな状態なの?」と実感しました。
父が弱音を吐くことは決してなかった
――そうなると、ボストンに戻ることには躊躇しますよね。
逸見 でも、父には「1週間後には戻る」と言ってしまっていたんですよね。それなのに日本にいたら、父が「息子が日本に残るってことは……」と余計な勘繰りをしてしまいそうで。
それでも残ることにしたんですが、お見舞いに行くこともできず、家でじっと過ごしているだけなので正直「自分は何をスタンバイしているんだ……させられているんだ??」と思っていました。
――手術してからのお父さんは、どういった様子でしたか。
逸見 当たり前ですけど、明るい感じではなかったですね。父は忍耐強いタイプだったので、じっと耐えているように見えました。弱音を吐くことは決してなかったですね。
それに、気を遣われるのを嫌がるんです。僕たちが早くから病室に行って夕方になると「もう夕飯だろ。早く帰れ」と。自分は以前みたいに食べることができないので、見舞いに来ている僕たちがお腹が減って、隠れて食べたりする姿が気になったんでしょうね。
自分を気にして、コソコソ食べているのがイヤだったみたいで。家族にそういう配慮をさせてしまうこと自体が嫌だったのだと思います。仕事でもそうですが、周りをよく見て気を配る父らしいところでした。せめて家族にはそこまで気を配らずに、もう少しわがままを言ってくれてもよかったのに、と思いますがそれもまた父の性格、気質だったんでしょうね。
死を現実として受け入れられず、素直に泣くことができなかった
――1993年12月25日にお亡くなりになりましたが、太郎さんはその数日前に帰国を。
逸見 モルヒネを打っている影響もあって朦朧としていて、弱っていく父を目の当たりにしても、どこか現実として捉えられない状態というか。涙が出てこないんですよ。
フジテレビや日本テレビの関係者など、親しかった方々が会いに来てくださり、みなさんが父に話しかけて、足や手をさすったりしてくれる姿を、まるで俯瞰で見ているような感覚というか。
母や妹も涙ぐんで、一生懸命に言葉を掛けていましたが、僕は「長男だから、しっかりしていなきゃ」という気持ちも強くあって、どこか感情的になれなかったですね。「え? 本当に死んじゃうの?」と現実として受け入れられなくて。それに、そうすることが恥ずかしいという思いもあったんです。

