「大学で勉強して、ちゃんと卒業したほうがいいよ」ビートたけしからの助言で学業に専念
――太郎さんはお父さんを亡くした逸見家の経済事情を考え、留学を辞めようとしたそうですね。
逸見 そう考えていました。ただ、マスコミや芸能界に進みたい思いも少なからずあったので。父はフリーになった際、三木プロダクションと業務提携していたことから、三木プロの三木社長が、東京医大の先生を紹介してくださったり、いろいろと助けていただきました。
父が胃がんになってから、三木プロが僕に対してプロモーションをかけているのを感じることはありました。ボストンから帰って病室の父と握手した日も、会った直後に僕が記者会見をすることになっていたんです。
僕自身はそんなこと聞いてなかったので、準備されていて「エッ?」と思いましたね。「僕が行くところに、なんでこんなにマスコミがいるの?」と思う場面が何度もありました。
それが良いか悪いかはともかく、「逸見政孝がいなくなったら、今度は息子の逸見太郎を売り出そう」という雰囲気があったのは事実です。
――芸能界に行きたいなら、それに乗っかったほうがいいかもしれないと。
逸見 そうですね。でも、たけしさんがお線香を上げに来てくださった際に、「まだ若いんだから、大学で勉強して、ちゃんと卒業したほうがいいよ」「世間には、いつだって出られるんだから。出るべきときに、出るんだから」との助言をいただいたんです。
たしかに、そのまま大学を辞めてデビューしても、自分には何も力がないじゃないですか。「そんな状態で、どうやって芸能界で生き残っていくんだ」ということを自分でも考えて、やっぱり一度距離を置いて学業に専念しようと決めました。
1997年に映画『HANA-BI』で俳優デビューした経緯
――1997年、たけしさんの映画『HANA-BI』で俳優デビューされましたが。
逸見 進路について助言をいただいたこともあり、「無事に卒業しました」とお手紙を送りました。その中で、「やっぱり映画にすごく憧れがあります。芸能界に進もうと思います」という意志を伝えたんです。そうしたら『HANA-BI』で声をかけていただきました。
とはいえ、現場ではガチガチで、四苦八苦しながらやってましたね。たけしさんからは、「普通でいいから」と言われましたが、その「普通」を演じるのが一番難しくて「わからないなぁ」と思いながら必死で取り組んでいました。でも、芸能界デビューのきっかけをいただいたことは、本当にありがたかったです。
――太郎さんにとって、たけしさんはどんな存在なのでしょう。
逸見 大学進学について助言をいただき、芸能界に進むきっかけをくださって。本当に恩人だと思っています。その後もいろいろとお声を掛けていただいて、感謝しかありません。
――『HANA-BI』の現場では「わかんないなぁ」だった演技は、だんだんと自分なりに掴めるように?
逸見 『HANA-BI』が終わった後、事務所に所属することになり、役者として活動は始めましたけど、うまくいかないことも多くて。「自分はこの仕事に向いてるんだろうか」と考えるようになってしまったんです。
維持費の掛かる家を引き継いだり、仕事が激減して月収2万8000円になったりして……。とんねるずの石橋さんがサインに書いてくれた「いつまでもあると思うな親と金」という言葉が身に染みることになりましたね。
撮影=釜谷洋史/文藝春秋

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