アメリカで治療するはずが、病院から「治療の予約が取れなかった」と…

――すぐにアメリカでの治療を決意されたそうですね。

逸見 病院から電話でアメリカの医者を紹介されたときは、ちょうど僕もアメリカから帰国していたときでした。「早く受けたほうがいい」ということになり、8月12日のコブを切除する手術からわずか1週間後の19日にアメリカに行くことになって。退院が17日だったので、大慌てで準備して。僕が通訳で同行することにもなったのですが、まさかの父のパスポートの期限が切れていたんです。

 父と僕で外務省に行き、父が「1日でパスポートを作ってくれませんか。これを治さないといけないんです」と話をしながら服をまくって、手術跡まで職員の方に見せながらお願いしたんです。それで本当にパスポートを発行してもらえたのでさすがにビックリしました。

ADVERTISEMENT

 

――でも、アメリカには行かなかった。

逸見 出発の前日になって、病院から「治療の予約が取れなかった」というような連絡が来たんです。そもそもアメリカでの治療の話は、いろいろな点で僕たちも「何か、おかしくない?」と感じていて話をしていたんです。さらに直前で中止になったことで「これはもう、さすがに……」となって、最終的に東京女子医大で治療をお願いすることになったんです。

「武士が戦いに挑む覚悟を見せつけられた」父のがん告白会見を見たときの心境

――東京女子医大で手術を受ける10日前の1993年9月6日、お父さんは記者会見を開いて「私がいま侵されている病気の名前、病名はがんです」と公表して、「がんは隠すもの」という当時の常識を覆しました。生中継の会見でしたが、太郎さんはご覧になっていましたか。

逸見 僕はボストンにいたので、あの会見を生で見ることも手術に立ち会うこともできていないんです。後で、父から「やって良かった。想像以上の反響だった」と書かれた手紙と一緒にビデオテープが寮に送られてきて、それを見ました。

 その映像を見た時の衝撃は今でも覚えています。武士が戦いに挑む覚悟を見せつけられたというか……。自分の知っている父とは違って見えましたね。

会見でがんを告白した故・逸見政孝さん ©時事通信社

 最近では、重い病気を公表する方も増えてきましたけど、その先駆けというか、会見を開いて病気を公表し闘う決意表明をする、覚悟を見せることを初めてしたのは父だったのではないかと思います。とてつもない勇気ですよね、告知さえ一般的でなかった時代に。

 これまでに誰もやったことがないのに、病気の重さやさまざまな恐怖を抱えて、自分だったら同じことができたのかな、と思うととてもイエスとは言えないですね。父はこれまでの常識を覆したのだな、と改めて思いますし、強い人だなと。