浅草オペラの大物・伊庭孝の勧めで、実父から無理矢理費用を出してもらい、1920年、イタリア・ミラノに渡ってオペラ修行を始める。ベルリンやパリにも行ってオペラ見物をし、教師について声楽の訓練もするが、それ以上に熱心なのが、人気絶頂のハリウッドスター、ルドルフ・バレンチノばりの美男に引き付けられた女性と至る所で展開するラブアフェア。新聞記者に「バレンチノに似てるね」といわれて「僕の方がよっぽどいい男だ」と答えるほど、容貌に自信があった。
「僕が何をしなくても、女たちは向こうから群がってきた」と本人は回想している。ある研究論文は、彼の女性遍歴を、母親との共生関係が希薄なまま、母に対する未解決の心的葛藤が付きまとったことと関連づけている。浪費も一生付きまとう「癖」となった。
倫敦(ロンドン)で評判になった混血児の唄ひ手
1921年、ロンドンに行き、イギリス各地で「荒城の月」や「さくらさくら」など日本の歌曲を歌ったところ、在留日本人や、東洋趣味の「ジャポニズム」の影響で現地イギリス人に歓迎された。注目したロンドン日本大使館の吉田茂・一等書記官(のち首相)らの尽力で独唱会が開かれ、結果は大成功。現地メディアにも好評で、ここから義江の声楽人生が本格的にスタートする。
ニューヨークに渡って歌声を披露したが、ここで後押ししたのは1922年7月15日の大阪朝日新聞夕刊の記事。「倫敦(ロンドン)で評判になった混血児の唄ひ手 其(それ)は出世した戸山英次郎 美しい姫君を後援者に 『藤原義江』の名で時めく」という見出しだった。「涼しい風が街路樹に薫って青い月影がテームスの流れにゆらぐ頃…」という叙情的な書き出しで「藤原義江―殺伐な緊張を厭うて、毎夜毎夜倫敦人が彼の東洋的な感傷的な声に慕い寄る―」と、彼の生い立ちや音楽人生、女性との触れ合いなどをヒューマンストーリーにまとめている。
新聞の連載としては異例の“読み物ふう”
さらに翌1923年3月28日からは、東京朝日新聞の夕刊1面に連載記事が載る。タイトルは義江の一生の代名詞となる「我等のテナー」。「紐育(ニューヨーク)にて 原田譲二」の署名入りだ。原田はこの時、東京朝日の社会部長。のちに大阪朝日に移って編集局長、専務を務め、戦争直後には貴族院議員にもなった。記事の1回目は「ブロードウエーを下っていると、見知らぬ男が横合いから飛び出して『お前はヴァレンチーノの兄弟か』と問う。私の連れの青年に」などと、小説仕立てで始まっている。
その後も、義江のインタビューを基に、日英混血の美男の「日本の若いテナー」の物語をつづっている。特に生い立ちの秘密から、音楽の世界にたどり着くまで、さまざまな職に就き、社会の底辺を転々とした足どりをサクセスストーリーとして描いているが、かなり“読み物ふう”で、新聞の連載としては異例だろう。