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医学博士夫人・藤原あきが、夫と子どもを捨ててオペラ歌手と恋の逃避行。その顛末は……?

なぜ人々は上流社会のスキャンダルに熱中したのか #1

2019/10/24
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たちまちとりこになってしまった

 成功を収めて帰国したのは記事掲載直後の1923年4月。5月6日の帰国後第1回リサイタルも朝日が事実上主催した。義江がスターになったのは朝日の仕掛けといっていいほど、影響は大きかった。

 義江があきと初めて会ったのはその直後だったと思われる。帝国ホテルで開かれたベルギー大使主催のダンスパーティーの席だった。共通の知人が2人を紹介。義江は「確かに美しい人だった」「私はたちまちとりこになってしまった」と書いているが、あきの方がどう感じたか、はっきりした記述はない。しかし、前から義江を知っていたことは間違いない。当時のあきの写真を見ると、和服が多いが、単なる美人ではなく、どこかすごみがある。危険なにおいがある。それが男性を引き付けるのかもしれない。

「我等のテナー」連載第1回(1923年3月、東京朝日より)

 あきは、福沢諭吉の甥で三井財閥の総経理を務めた中上川彦次郎と、当時は「妾」と呼んだ愛人の松永つねの間に生まれた。学習院女子部を卒業。日本画と習字を学んだほか、短歌を佐佐木信綱(第1回文化勲章受章者)に師事した才媛だった。

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アプローチはあきの方から

 5歳で父を失い、当主の異母兄が結婚するに当たって、“厄介払い”したのか、一面識もない医学博士の眼科医・宮下左右輔と結婚させられる。夫は31歳、彼女は16歳だった。夫に対する愛はなかったが、娘が2人生まれた。夫は東京帝大(現東大)卒で大阪医大(現大阪大医学部)教授も務めた。あきは「芦屋夫人」として関西社交界の花形となるが、飽き足らないものがあったのだろう。娘の教育のためと称して東京に戻るなどして別居状態が続いていた。

 義江の回想によれば、アプローチはあきの方からだった。定宿にしていた帝国ホテルに、英文で「上映中のアラ・ナジモバ主演の映画『サロメ』を一緒に見に行こう」という誘いの手紙が来るが、義江は行かなかった。それは、新約聖書を基にしたオスカー・ワイルドの戯曲原作のアメリカ映画で、「日本映画発達史」によれば「1923年6月5日、神田青年会館封切り」となっている。

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 そして義江に匿名の電話が。やがてあきが帝国ホテルに現れ、2人は箱根への一泊旅行の約束をする。不倫の始まりだった。そして箱根の旅館での一夜、あきは「私、人の奥さんよ」と言い、後で「生きていてよかった」と漏らしたという。

「六尺の屏風よりも軽やかにわれ越えにけり道の掟を」

「幾百の美女来てさそへこの君は吾が恋人ぞ吾は恋人ぞ」

 当時、あきが詠んだ短歌が、彼女の死後、義江が出版した「我があき子抄」に載っているが、堂々と胸を張った感じが伝わってくる。この間、常に積極的、攻撃的だったのはあきの方だった。