テレビのレギュラー番組、雑誌の連載、食育活動、出版したレシピ本はほぼ重版。こつこつと地道に努力を重ね、精力的に活動する料理人・笠原将弘さん(51)の生きる場所は、東京・恵比寿の「賛否両論」である。
通算93冊目となる書籍『和食屋が教える、旨すぎる一汁一飯 汁とめし』(主婦の友社)発売を前に、両親と妻との別れ、そして3人の子育てなど、これまでの歩みを伺った。
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「店をスタッフにあげちゃおうかなって、本気で考えましたよ」
――2004年に「賛否両論」を開店されて、いつもお忙しい印象の笠原さんですが、仕事を辞めようと思われたことがあったとか。
笠原 カミさんが亡くなったのが2012年だから、(開店して)9年目くらいかな。3人の子育てをしながら料理人の仕事を続けるのは、物理的にも精神的にも絶対無理だと思ったからね。店をスタッフにあげちゃおうかなって、本気で考えましたよ。
――えっ、そこまで。
笠原 一旦仕事から離れて、落ち着いてから先のことを考えればいいかなって。そうしたら、カミさんのお姉さんが、「家で子どもたちを見ててあげるよ」って。たまたまお義姉さんは結婚していなくて、仕事もすぐに辞められる環境だったから、カミさんのお母さんも、子どもたちのおばあちゃんだね、「そうしなさい」って言ってくれて。子どもたちのご飯をつくったり、掃除、洗濯、家のことを全部やってくれました。
――もしお話がご負担だったらおっしゃってください。奥さまは子宮がんで闘病されていたと伺いましたが、病状はある程度わかっていたのでしょうか。
笠原 途中からね、僕も覚悟してましたよ。
――お父さまとお母さまもがんで亡くされたと、以前おっしゃっていました。
笠原 すごいよね、俺、なんかね。確率的にこんなにぶち当たる人もいないと思うよね。だから、思いましたよ。俺が疫病神、みたいな。まわりがみんなそうなっちゃうのって、俺が負のなにかを持っているのかな、とかね。
辛く悲しい日々も頑張れた“理由”
――人でも仕事でも、自分にとってすごく大事なものを失ったときに、人間はどうやって自分を取り戻していくのだろうということがずっと気になっていて、笠原さんはどのようにしてご自分の人生を……。
笠原 すぐには無理だよね。普通に戻るっていうのはね。相当きつい思いをするわけだから。でもひとつは、子どもたちがいて、仕事があるということで、瞬間的にでも忘れられることはあるよね。俺の場合は、そこだった。仕事がおかげさまで忙しいから、仕事をしている間だけは、時が過ぎていくから。