自身が腕を振るう「賛否両論」は来年20周年を迎え名実ともに日本を代表する料理人になった笠原将弘さん(51)。今も「もっと上手くなりたい」と語る笠原さんには目標としている人たちがいるという。通算93冊目となる書籍『和食屋が教える、旨すぎる一汁一飯 汁とめし』(主婦の友社)発売を前に、“憧れの存在”を尋ねた。

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お店で“マスター”と呼ばれている理由

――「賛否両論」をオープンされたのは、ご実家の「とり将」を継がれて5年目ですよね。

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笠原 4年半やって、おかげさまで店がまあまあ人気になったんですよ。親父の頃からやってたから、地元では知られた店ではあったけど、予約して来るような店じゃなかったのに、最後の1年くらいは一気に予約で埋まるようになってね。「テレビを観て北海道からきました」とか、あそこでひとつ、親孝行ができたかなと思いました。

「とり将」を辞めるという気持ちはそこまでなくて、どちらかというとまわりにたきつけられたところがあったかな。新しく常連になった同世代のお客さんに、「もっと勝負してよ、マスター」とか言われたりして。

撮影 榎本麻美/文藝春秋

――当時から「マスター」と呼ばれていた?

笠原 親父がマスターって呼ばれているのを、かっこいいなあってずっと思っていて、スタッフにもお客さんにも「マスターって呼んでくれ」って。

 その頃から、同世代の料理人の友だちも増えました。あぶちゃん(タレントの虻川美穂子)の旦那になった桝谷(周一郎)とか、「なすび亭」の吉岡(英尋)さんとか、「俺たちの世代でこれからなにかやんなきゃ」みたいな気持ちになってきていたタイミングでもありました。

 あと、親父の大親友だったおじさんがふらっと店に飲みにきてくれたとき、「賢さんはお前に武蔵小山の店を継ぐんじゃなくて、せっかく吉兆で修業したんだから、銀座や青山で店をやって欲しいって言ってたぞ」って告げられて。そのおじさんは僕も大好きな人で信頼していたから、親父がそう言ったんだったら、独立しても怒られないかなって。

撮影 榎本麻美/文藝春秋

銀座でもなく、青山でもなく、なぜ恵比寿を選んだのか?

――銀座でも青山でもなく、恵比寿で。

笠原 あまり地元(武蔵小山)から遠いのは嫌だなっていう単純な理由と、銀座よりももっと若い人たちが集まる、中目黒、恵比寿、代官山あたりがいいなと。

 最近はどのジャンルの料理も高くなっちゃったけど、あの当時、高くて食べにいけなかったのは日本料理くらいだったと思うのね。イタリアンとか、フレンチでもビストロならデートでも行けたけど、日本料理だけ高くて、しかもちょっと古臭かった。修業先の吉兆なんて、お客さんが「冥土の土産に」って言いながら来られるわけですよ。