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笠原 いや、その時点ではまったく思ってなかったよ。まずは10年修業しようと決めて、吉兆以外のところも見てみたいとか、海外でも仕事してみたいとか、いろんな夢があったから。

 まさか親父がそんなに早く亡くなるとは思ってなくて、ひとりっ子だし、お袋もいないし。店を完全になくしちゃうという選択肢もあったけど、せっかく親父が続けてきた店で、俺もいつかは継ぎたいなって思ってたから。親父が入退院を繰り返している時期から、師匠には「親父ががんになって、もうダメそうなんで、上がらせてください」と伝えて、親父には「退院したら一緒にお店やろうよ」っていう話を病室でしょっちゅうしてました。

――いわゆる介護もされてらしたのでしょうか。

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笠原 もう俺しかいないから。近所に住んでる親戚の人もいろいろ手伝ってくれたけどね。一番最初に手術して、1回退院して、最期までは1年半から2年くらいだったかな。まあ、そんな感じですよ。

――「とり将」という店名もそのまま継がれて。

笠原 お金もなかったから、ほとんど改装もせず、ただメニューだけは自分のやりたいようにやろうと思って、ちょこちょこ替えていきましたけれども。それだけ聞くと、お袋だけでなく親父まで亡くなってしまって、哀しいストーリーになるんだけど、考え方によっては、なんの借金もせずに28歳でオーナーシェフになれたじゃないですか。ちっちゃくてぼろい焼き鳥屋とはいえね。そうやって、自分に言い聞かせましたよ。

撮影 榎本麻美/文藝春秋

「オヤジとお袋を招待できなかったのは、ひとつ悔しいところですね」

――すごく葛藤があったのではないかとお察しします。

笠原 葛藤もあったし、哀しいし、さみしいしね。長女はギリギリ生まれたときに親父に抱っこしてもらっている写真はあるんだけど、お袋なんて、孫たちを見たこともないし。親父もお袋も、もしいま生きていれば75歳か。子どもたちもすごく可愛がられたんだろうなって思います。

――お母さまは、笠原さんが料理人になられたこともご存知ないわけですよね。

笠原 それはよく思うよね、この店に招待したかったなあって。お袋の友だちは店に食べに来てくれて、そこでよくお袋の話をするんだけど、俺が小学生のとき、全校で配られるプリントに俺の作文が載ったりすると、ものすごく喜んでコピーしてまわりに配るタイプだったとか。

――微笑ましいですね。

笠原 いまだったら、俺の本とか買って配るんだろうなあって、想像しちゃう。店でも、「マサヒロ、早くこの日の予約取りなさい」とか急かされたりして。テレビの番組なんて、全部録画して観るんだろうなあ。それがボケ防止になったんじゃないかなって、最近よく思う。