あと、当時はまだ子どもたちが小さかったから、お母さんがいないさみしい気持ちをなるべく味わわせないように育てなきゃなっていう強い思いもあって、がんばれた。料理人の仲間やまわりがすごく応援してくれて、そういうのも励みになるよね。
だけど、大事なものを、大切な人を失った哀しみというのは、正直にいえばいまでも消えないもん。どこかで思い出すし、それはふとした瞬間にやってくる。油断するとね。だから、無理に忘れようとしないで、痛風の発作が起きたとか、そういうものだと思うようにしてるよ。
――自分なりの対処法があれば心強いですよね。
笠原 僕の場合は、人に会うと安心できる。おかげさまで友だちはいっぱいいるから、すぐに一緒に飲みに行ってくれる。あと最近は、子どもたちが大きくなったから一緒に飲めるっていうのも、いいですよね。長女と次女は、酒がすっごく強いから、よく飲みに行きますよ。おしゃれなバーとか、雑多な横丁とか連れていってあげたり、家でも一緒に飲むしね。
――ご長男には今年の3月まで毎朝お弁当をつくってらしたのですよね。
笠原 長男が高校に入学して、学食もある学校だったんだけど、「お昼はどうするの?」と聞いたら、お弁当のほうがいいっていうから、なにかつくってあげようという気になったんだよね。長女と次女のときは、運動会とか特別なときは必ず僕がつくってたんだけど、ふだんはお義姉さん任せになっちゃって、これでもうお弁当づくりも最後だなと思ったら、長男のぶんくらいは自分がやろうと。
「お弁当を作ると長男がどういう男か分かってきた(笑)」
――みっちり3年間?
笠原 夏休みとか試験中以外は、毎日つくってた。店が終わってサウナに行って、近所に深夜までやってるスーパーがあるから材料買って帰って、晩酌もして、朝は5時半に起きてましたね。
長男は好き嫌いが多くて、うなぎを入れたらうなぎは嫌いとか、手羽は手が汚れるから入れるなとか、おかず同士の味が混ざるから仕切りをつくってくれとか、「うるせー男だなー」って、だんだん長男がどういう男かわかってきて(笑)。「高校生のときなんてこういうほうがうまいだろ」って、俺がつくってもらっていたお弁当は、ごはんの上におかずがいろいろのってて、色も茶色くて、味が染みるのがちょうどおいしかったのに、もうこんなにうるさいなら好きなもんばっかり入れてやろうと思って。
――笠原さんは武蔵小山で育たれて、ご両親が営む焼き鳥店の2階に住んでらしたのですよね。高校生のときは、お父さまがお弁当を?
笠原 お袋が亡くなって、親父も「俺がつくんなきゃ」って思ったんだろうね。うちと同じように、店で余った料理があったから、それをタッパーにぎゅうぎゅうに詰めてくれるのがおいしかった。それがだんだん、親父も夜遅い仕事だったし「朝早くから悪いな」っていう気持ちが湧いてきて、あとは友だちと学校を抜け出してラーメンを食べに行ったりするのがかっこいい時代だったこともあって、けっきょくお弁当をつくってもらったのは半年間だけ。